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 HOME 算数の図形教室<B>  入試図形問題の攻略Version4 <新版>入試理科の攻略


  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§282 トッポ雑感・・・
<ことは困難であり微妙である>

1.学力テストを毎月のように受ける生徒がいます。が、これはあまり感心しない。1ヶ月の間に猛烈に勉強して、前より確実に実力が上がったと、内心自信のもてる科目があれば別だが。1,2年生は年3、4回、3年生は年5回もすれば、じゅうぶんじゃないのかと思う。頭のなかが、以前より知識や記憶で重たくなったと感じたとき(or錯覚したとき)、学力テストを受けたいものだ。

2.あるホームページに、次にような一節があった。
「受験勉強に一番必要なものは『気持ち』です。それと『時間』です。」

 ああ、ほんとに、そう思う。学習法ではないよ。

3.MLBプレイヤー松井秀喜の言葉で、手帳に書き留めていたものがある。
「いい結果が出たとき、その理由を検証しておかなきゃ絶対に続かない」

 ストイックな彼の気質の一部が、よく表れている言葉だ。わたしも含めて大抵の人は、いい結果が出たときはただ大喜びするばかりで、その理由を満足に検証することなど頭に浮かばないものな。それでは、続かない。

4.「大切なのは、生徒が二度と同じ間違いをしないように指導することである。」
 これはある塾長の、戯けた科白である。先生という人種には、この手の中途半端なバカはごろごろいる。

 わたしは同じ間違いをする。二度は最低する(なにもエラそうに書いてはいけないが)。その間違いから何を学ぶかなんて、アホなことは書かない。ただ二度も同じ間違いをする自分が、ほとほとイヤであるね。自分のバカさ加減にあきれて、三度目の間違いをできうる限り回避するだけである。つくづく平凡であると思う。

 ところがこの平凡が、生徒に当てはめると、平凡でなくなるところがどうもおかしい。「大切なのは、生徒が二度と同じ間違いをしないように指導する」ことだって?! 格好のいい科白だが、あまりにもヒドい嘘をつくな、と思うね。二度と同じ間違いをしない、どころか、三度、四度、五度、いや生徒によっては十度以上同じ間違いをするんだよ。これはひとつのことであって、種類が違えば、また同じ現象が現れる。つまりその掛け算の総数が、いったいどんなけのものになるか、想像しえるか? これは平凡ではなく、異常である。この異常を平凡の次元にまで持っていくことが、指導である、とわたしは思っている。

「われわれは弁解の余地のない間違いによってしか学ばない」
 これは、アランの言葉。‘ただ勉強する’姿勢から、‘学ぶ’姿勢に変える
ことが、望まれる。

5.たとえば「社会の地理が好きになる方法はありますか」という質問。
 好き嫌いは、その者の感情の問題であり、勉強という次元での、キライなものをわざわざ好きにさせる方法なんかは、食べ物ではあるまいし、世のなかありはしない。同列に考える、まずその頭をなんとかしろ、といいたい。言葉が過ぎた。なんでもかんでも同列に考えるな、と諭したい。

 人間は好きなものにその理由をいちいち言うことは少ないが、キライなものにはその理由をいろいろとつけたがる、厄介な動物である。

 これはさておいて、またまたアランの言葉を引くが、次のようなことも彼は言っている、

「ラテン語を知ってなんの役にたつか、と人は言う。ことは困難であり微妙であったがゆえに、これを学んだことは役だつのである」
 
 これは、高校生に贈りたい言葉である。

 すこし話がずれるが、ラテン語について。
 ラテン語はローマ帝国の公用語で、古代ローマの人々、特に上流貴族の人々の言語として用いられた。今日では学術語として一部残っているもののほとんど死語である、と見做す人もあれば、どの学問でも少しでも本格的にやろうとすれば、ラテン語を避けて通ることはできないと、ヨーロッパの高等教育においては、ラテン語は一種の常識として、学術論文その他において引用されるなど、まだまだその価値はヨーロッパの学問の言語として重きをなす、と主張される方もいるようです。

 まあ外から観たこの程度のことしかいえない門外漢だけど、わたしがラテン語と聞いて憶いだすのは、ヘルマン・ヘッセ。彼もヨーロッパの多くの知識人が学んでとても苦労したように、若き日、神学校のマウルブロン修道院で学んだときには、必修の課目として相当苦吟、またおもしろくもなく悩まされたようだ。

 ちょっと乱暴な言い方だが、ラテン語はいまの高校で習う漢文、古文の位置に近いものがあるかもしれない。ですから、ラテン語を古文に言い換えて、「古文を知ってなんの役にたつか、と人は言う。ことは困難であり微妙であったがゆえに、これを学んだことは役だつのである」で、この文のニュアンスはより掴めるかもしれない。

 学んだあとにわかるのであって、学ぶ途中には決して学ぶ理由がわからない科目というものがある、といえる。もちろん学んだあとにもずっとわからないままでいる科目というものもある。これは大学の授業で多いが、それはあくまで自分が学ぶところまでやっていないことに由来するもので、弁明の余地はないことである。

「ことは困難であり微妙であったがゆえに、これを学んだことは役だつのである」 この意味するところは、知識の習得だけではない。もっとはっきりいえば、知識の習得をする周りにあるものである。鈍重なことに、ようやくこの年になってわかってきた。

 学んですぐに役立つ科目もあれば、学んでも年月をかけないと醗酵しない科目もある。このことを、いまの高校生に贈る。ことは困難であり微妙であるのだ。