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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§137 小学校でしておくことVOL.2 
<雨ニモマケズ> 

  フランスの哲学者にして教育家アランの表現を藉りて表現すれば、次にようになるでしょうか。
「暗記をする力」はあのショーウィンドーに飾られている品物のように、人がそれを選んで、お金を払って、持ち帰ることのできるようなものではない。「暗記をする力」は、人がそれを自分の中に入れなければ「暗記をする力」にはならないのだ。自分自身の外に求める限り、何ひとつ「暗記をする力」の姿をとっているものではないのだ。

 この力がないと、中学になってもし塾に通い始め、余分に(?)に勉強し出したとしても、見かけの成績はなるほどよくはなったように感じても、その実、ほんとうの実力に結びつく生徒はなかなかいない。なぜそう断言できるかといえば、ほんとうの実力をつけることに、それはそれは人の何倍も腐心しているからであり、次から次へと習ったことを生徒は、いとも簡単に、平気で忘れて
いく習性(?)を持っているからである。

 世の中の人はおかしなことに、これを押並べて問題にしない。親も子も教師もそれに取り巻く人々も、子供には暗記する力が一律にもともと自然に備わっていると思っているかのように、またはその目線が欠落しているかのように、わたしには映る。問題はその上の、わかるかどうか、よく考えるかどうか、勉強時間をかけるかどうか、勉強の仕方がどうも自分ではわからない、などから始まるのが常だ。まことにもって、変な話しである。

 表現力、論理力をいう前にまずは読解力であり、思考力をいう前に暗記力がしっかり備わっている、いや、学習上支障ない程度にはあるのが先でしょう、そう、思います。この暗記する力がいま、学力低下と同時に明らかに落ちているわけです。その例を挙げれば切りがないのですが、一番暗記しないですむ科目の数学でさえ、時間が経てば、普通の合同条件ですら忘れかけたり、直角3角形の合同条件になると正確にはいえなくなったり、さらには平行4辺形になるための条件(5つ)になると2つか3つぐらいしか満足にはいえなくなる有様ですから、そしてこれが、勉強をあまりしない生徒なら理解できるのですが、そうではなく平均的な生徒の実態であるだけに、非常に困ったことになるわけです。それらの知識はまだごく表面的で、運用する力、つまりほんとうの力にはほど遠いですから。これが英語、理科、社会になると、・・・。

 この暗記する力の絶対的低下の原因として、教育内容の在りかたが一番大きく響いているのは論を俟ちませんが、他に、テレビ、マンガ、雑誌等の情報文化の影響、読書離れ、生活習慣のあらゆる変化、などが挙げられるでしょう。しかし、自分自身の外に求める限り、問題は何ら解決も前進もしないのであり、あくまで「自分の中」でその対策と実践の工夫をしてもらいたいと考えます。

 その力はまさに、中学では遅いのです。なにしろするべき時に、何もこれといった無理も努力もしないで過ごしてきたわけですから。穿った言い方ですが、結果そうとられてもしかたがないほど、それはひどいものです。 

 まあしかしそれでも、何事にも遅いということはなく、気付いたときからやり直したり、コツコツ進めていけばいいことなのですが、気付いても自分のことなのに、何の努力もて手立てもしない生徒をあまりに多く観てきたせいか、理想的な調子のいいことはどうもいえません。前回にも書きましたが、出来る限り小学校の5年と6年の時期に、勉強に関連することの中で、そして本当は、それ以外のさまざまな自分の好きな分野と領域の中で、この暗記する力なるものを育てることでしょうし、そしてどんどん鍛えていかねばなりませんね、そう切実に思います

 さて突然変なことを書きますが、徳川将軍十五代までを諳んじています。
 初代ー徳川 家康、2代ー秀忠、3代ー家光、4代ー家綱、5代ー綱吉、6代ー家宣、7代ー家継、8代ー吉宗、9代ー家重、10代ー家治、11代ー家斉、12代ー家慶、13代ー家定、14代ー家茂、15代ー慶喜。

 少々ペダンティックになりかけてますが、これをわたしは小学時代に覚えました。足利将軍15代も高校生の折に覚えたのですが、こちらのほうはいまでは、ぱらぱらと歯抜けの9人ほど(尊氏(1)、義詮(2)、義満(3)、義持(4)、義教(6)、義政(8)、義尚(9)、義輝(13)、義昭(15))言える程度で、あとは失念しております。

 なぜ忘れたのかといえば、理由は簡単。折に触れて反復していないからですし、日常の中で接する機会がとんとないからでしょう。 覚えたのはひとつの些細な結果であり、何事もその結果から人は見るわけですが、その裏には当然、相当な努力(?)、執念深い反復があるわけですね。
なぜなら、千人か一万人に一人ぐらいな、一度覚えたことはすぐに脳裏に焼きつく素晴らしい頭なんて、到底持ってはいないのですから。

 いまでは年の功で徳川 家康だけをとっても、その妻、子供、主君から家来、直接に関連する人物だけでも軽く50人以上は浮かび上がるでしょうし、15代の慶喜まで含めば、歴史的背景から流れ、政治的問題まである程度は説明は出来ますし、人物だけでもその5,6倍はいえなくもありません(大法螺かな? そんな気はするんですが)。まあ縦横斜めと、蜘蛛の巣状に知識だけは絡まっています。

 宮沢賢治の雨ニモマケズは最後まで暗記しましたし、ことわざ全集なるものも買ってきて次々に覚えこみました。正岡子規の俳句や短歌はもちろん、石川啄木の短歌集、それに有名な俳人や歌人の詩歌ももちろんこの頃暗誦しました。日本の都道府県の県庁所在地なんてものもすべて暗記しました。世界の主な山脈、河川、湖、都市なども、画用紙に描いたりしてどんどん覚えていきました。たとえばフランスを流れている川なんて、セーヌ川だけでなく、ジロンド川、ロアール川、ガロンヌ川などフランス国内の大きな川は今でも記憶に残っています。理科も問題集というよりは図鑑や年鑑などを通して、いろいろ知識を拡げていきました。

 これらはごく一部の例ですが、お判りかと思いますが、教科書の範疇ではありません。それがすぐにテストや勉強に役立つものでもありませんし、一般的には余分なものであり、テスト範囲からはみ出した、あるいはズレた知識です。他人から言われてするのは何より嫌いでしたし、あくまで気の向くまま自発的にしでかしただけです。もちろん親も教師も知りません。そんなこと知ったことじゃあない、テストだけに覚えるなんて、面白くともなんともないわけですから。

 まあ、こんなことは、いまは知りませんが昔なら、わたしだけではなく結構誰もがやっていたように推うのですが、それだけにちっとも自慢にもならないわけです。でも少しは参考になるかと、羞じを忍んで書いてみた次第。 ドストエフスキーがいみじくも次のように言っている。
「多少とも有利な姿で自分を紹介したくない人間なんて、まずこの世に存在しないものである」
 それはさて、この頃、小学5,6年は、多くのものをどんどん吸収することが出来(表面的にしろ)、また覚え込むことが可能な年代なのですね。

 いまの中学生はたとえば、光陰矢のごとし、なんて慣用句も知らない。これはおかしい。また、知っている俳句か短歌をひとつだけ言ってみなさい、といってもその答えは、どうしたことか容易に返ってこない。これは、おかしい。

 円周率の3.14なんて、なぜ3にするのか、これも実におかしな話です。中学ともなるとπを使うので、計算のある意味堕落をするのですが、小学校では3.14を使うから小数計算の力がさらに磨けたり、用心する計算のしかたを反復できるのでしょう。それを足したり引いたりする応用の面積を求める問題なんか、工夫をするという思考と行為もここで一つに始まるわけでしょう。また、
3に単純化するのではなく、実は3.14159265358979323・・・(ここまで小学校では暗記しました)と無理数であるところに、?マークとロマン、不思議さがあるのでしょう。ほんとに4万桁(?)以上暗記している人には驚きますが。
 
 昔の話ですが、高校生になって古文の授業かなにかで小倉百人一首をすべて暗記しろ、という冬休みの課題が出て、おったまげたことがあります。まあ、無理難題、理不尽な命令です。しかし、売られた喧嘩(?)、買ってやろうじゃあないかと、それはそれは必死こいて覚えたものです。しかし一時に、百も短歌を覚えることは尋常ではない作業。このときは思いましたね。もう少し、
小さなときにある程度は齧っておけばよかった、と。

 いまではその残滓として、完璧にいえるのは二割にも満ちませんが、無理して覚えこむのも決して悪いことではない。何事も始めは無理にもやらねばならないことはたくさんあるものだ。そして乗り越えなければならない課題もいつも出てくる。その無理が出来たのも、小学校(それに続く中学校)で身につけた暗記体験と、その中でもがいて培われた、自分流のさまざまな暗記方法が役立ったことは間違いない。

 暗記をする力は、深く暗記をする術と習慣、そして絶えざる訓練を通して少しずつ形成されていくものであるが、その基盤となる時期は中学ではなく小学校の間に在るということを、最後にもう一度申し上げておきたいと思います。