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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§99 国語について
<天声人語をノートに>

 山梨県在住のS 様(中1生のお母様)から、
「理・社・国で何かお薦めの問題集等有りますでしょうか。」<一部>という、お便りがありまして、今回はその一部に触れて書かせていただきます。

「国語はかなり苦手にしてます、とにかく読むことが嫌いで・・・」
 と、いう生徒はほんとに多いですね。わたしなんか自慢じゃないが、「職業柄」人の数十倍はこの事実を知っているわけで、数百倍痛い目に、また困惑としたくもない苦痛を味わっているわけです。ですから、単なる感想の域に留まるなら、そして「本をたくさん読むことです」と、簡単な言い方ですませられるなら(いや、ほんとに究極、これしかないんですよ)、どんなに気楽でいいか知れませんね。

 気楽、という言葉を書いてしまって、一般的でありふれた国語の学習のしかたを、またここで堅苦しく書く気がしなくなりました。そんなものは小・中の朝礼の校長先生の訓話と同じで(いまはあるのかしらね?)、聞いたその場から忘れ去られる運命にあるので、まあものはついで、我が愚息と我が母親の例を、愧を掻きつつも書いてみます。なにか、印象に残ることがあるかしらん・
・・(太宰治風?)。

 わたしには娘と息子がいまして、娘は堅実派(?にみえるだけかな)で、現役で国立の大学に進み、昨年から社会人としてちまちま働いております。息子のほうはいま、京都大学の一回生で、工学部に在籍しています。もちろん(?)、一浪して受かったわけですが、それも天の恵み、神の思し召し、祖先のご加護があったればこそ、としか言い様がありませんが、とにかく奴の国語の能力はひどいのです。

 小中の頃は、娘、息子のことを、当人の名前で呼ぶほかに別称として、娘は「姫」、息子は「くそガキ」、と大いに差別しておりました。その頃の奴の会話は、バワーッとか、ギャアーとか、妙に擬声語、擬態語が多く含まれ、ものを表現するのが大雑把、感覚的で、論理のある内容、筋道の通った長い話を聞いた覚えがありません。背中で読書の大切さを教えたつもりですが、当人はちっともこちらの背中を観ません。読書する姿を、「発見した」ことがありません。

 それでいて、学校の内申書では中3の最終国語、たしか10がついており、我が目を疑うこと限りなく、目が点になってしまったものです。それそれはつけてくださった先生に有難かったわけですが、その甲斐もなく(以前にも書きましたが)公立トップ校には見事落ちちゃう始末。我が頭にはまったく描いてもいなかった私立高校へ。この、くそガキがあっ! 金がかかるではないの。

 高校での奴の勉学風景は、コタツに座っての姿。冬も夏も。立派な机の上は、物置とかし、本や問題集、プリント、それに読みかけの漫画本が乱雑に投げ出され、とても神聖で厳かな学問追求の場所とはいい難い。高校3年間、そのコタツに座って、また寝そべっている姿のなかで、「うん、何読んでいるんだ?」と、いう言葉を、わたしはついに発したことがない。

 センター試験の結果。当人の成績、200点満点で98点! うーん、言葉にならない。これでは平均点ではないか。他のがいくらよくても、これでは話にならない。国語に始まり、国語に終わる。馬脚があらわれたとは、このことか。その後の奴の勉強のスタイルは改心することなく以前と変わらないコタツの姿であったが、ともかく勉強したんだろう、2度目のセンターの国語は158点にな
っていた。また特に優れている点数ではないが、他の教科の大きく足を引っ張ることはなくなったのは何よりのことだった。

 先日、喫茶店で一緒にお茶を飲みながらのこと。このお茶も、最近漸くアイスコーヒーになってくれて、ほんとに、とてもありがたい。わたしは当然コーヒーで安いのだけど、いままでの奴の注文は、必ずメニューを見て(そんなの見るなっ、男は)、フルーツパフェだの、アイスモカジャバだの、コーヒーゼリーフロートだの、値段が高いものを遠慮なく注文した。小さき頃より積み重ねて、いったい累計いくら支払った、と思う?!(まあこれは単なる、どうでもいいぼやき。細かいこというな)
 
 その奴が、ぼそりと、いう。
「将来、何をやりたいか、わかんないんだよなあ」
「ふーん、まあ、まだ時間があるんだし、勉強しながら考えろよ」
 と、適当にあしらう。頓馬で能天気な感想には、付き合う気はあまりない。
「でも最近、勉強でしたいことが、みつかったよ」
「なんや、それ?」
「心理学―― でも、取れなかったんだ」
「・・・? そんなもの、自分でできるだろう。本を買って読めば。2年生で
も、取れるんと違うのか――」
「た、たぶん、取れるかな?・・・」

 平和な奴だ。深く考えないで思いつきを口にするから、こちらも深く考えない。
「合コン、するやろ。するとね、必ず、相手から携帯番号訊かれるんだよね」
 と、まんざらでもない顔でいう。
「えーな、それ。羨ましいかぎりやなあ。美人は、いたか」
「うん、まあね。でも、性格が合わないと、・・・」
と、お互い一本、線の足りないことをいい合う。

 一度逢って、話なんかをすると、興ざめするらしい。この、何たる愚か者で贅沢者めがっ! どういうわけか、わたしに風貌はまったく肖ず、言うのもおこがましいがジャニーズ系の容姿をしているもんだから、オクテのわりに頗るモテテルみたい。いいね、でも、なんとふざけたことか。男はね、内面をもっと磨け、少しは本でも読んでねといいたいが、それは負け犬の遠吠えのような
もので、親子とはいえこんなにも違うものかと、わが身が可哀想で、ぐっと我慢。その代わり奴には、経済的富裕さを与えないのが、いや正確にいうと、与えることができないのが、せめてもの親の教育か、と思っている。なんか、論理的に変。<おおいに脱線しました>

 わたしの母はもうすぐ八十歳。この人は長年針仕事をしていて、呉服屋さんからいただく縫い物の仕事、仕立て直しや夏の浴衣などを副収入にしてきた。えらい頑張り屋さんです。昨年の秋まで続けてきたその仕事も、阪神大震災の影響(西宮に住んでいましたので)や高齢化に伴う顧客の減少、一般の呉服離れによる需要の低下などで、いよいよ少なくなりました。暇を持て余す状態の折、妹から勧められて、朝日新聞の「天声人語」をノートに書き写すようになったのです。

 指先を使うのはとてもいいことはご存知の通り。針仕事もおおいに老人ぼけを防いでくれた感があります。これはいい、とわたしも気軽にすぐ奨め、ノートとボールペンを用意しました。しかし、その書かれた最初の内容を見て、わたしは、うーんと唸りました。あまりにひどいではないか。縦書きをわざわざ横書きにして写している。大学ノートとは、そのように横書きするのがルールだと思っていた節がどうやらある。これは難渋する筈だ。

 字も拙く、文章も斜めに曲がり、また段落わけもせず、びっしり詰めて書いてあるものだから、真っ黒に見える。誤字脱字があるのは言うまでもない。それからというもの、わたしは一行おきに書いたらもう少し綺麗にみえる、この黒い印のとこで段落わけすればいいんだ、句読点はしっかり書くこと、など徐々に説明、教えていった。

 少しずつであるが、見やすくなり、字も落ち着いて、文章全体のまとまりが出てくる。しかし、相変わらず魯魚亥豕(ろぎょがいし)、つまり、文字の写し誤りが多いこと。本人はそれを気にして、妹と情報交換。虫眼鏡を買ってきて欲しい、と頼まれる。

 それもそうだ。新聞の小さな字を写すには、八十に手が届く老母にはかなりきつい作業である。老眼鏡だけでは手に負える筈がない。そんなこともわからない、推し量ることもできないわたしは、ちょっと羞じた。急いで文具店に趨り、軽くて大きな虫眼鏡を購入してきた。それからはぐんと誤字脱字も減り、書体もしっかりしてくる。

 でも、1ページ半の中に、二、三の漢字の誤りがあるのはしかたがない。それを赤のボールペンで修正する。本人はあとから、その練習を喜んでする。 わたしが読んでいると、
「なにか、間違っている? 今日のは、いいこと、書いてあったね」
 と、うれしそうな顔。
 誤りがないとき、最後に、Good !と、書くことにしているものだから、そんな折はノートを抱えて、ニコニコしている。

 コタツに座って、しかしきっちり座ると関節が痛むものだから、少し体をずらしながら、それでも姿勢よく書く。そうしないと、本人曰く、綺麗に書けないそうだ。毎日毎日、朝の時間をとって一時間ばかし、筆写に勤しむ。雨の日も風の日も。風邪で二三日寝込んだ折には、ああ、これで少しは見ないですむ、とそぞろ思ったこちらの怠け心は、母の一意専心の前には通じない。

 回復すると、溜めていた分まできっちり時間を補って書いているものだから、こちらが逆に溜める破目になり、まったく彼女の、止まることを知らない機関車のような迫力には、押され気味だ。安易な気持ちでは三日も続かないだろうし、相当な覚悟と目的意識を持って始めたとしても、途中で誤算が生じたり思わぬ理由ができたりしてやめたくなる時があるものだが、それが彼女には微塵もないから不思議だ。

 書くことと読むことでは、労力はまったく違うのであり、確か夏目漱石が書いていた、次のような文章を憶いだす。うろ覚えで、表現は違うだろうが、
「人は知識や金の前ではほんとうには頭を下げないが、根気の前では頭を下げる」
 と。いまさらながら、母の根気には、恐れ入るばかりだ。

 大学ノートに書き写していたものも、一冊が終え、二冊目が終え、いまは三冊目の真ん中に入っている。また最近では、ボールペンにも拘りが出てきて、これは書きづらいとか、細くて字が薄いとか、それにもいちいち応えなくてはならないから、骨が折れる。中途半端では、なかなか納得してくれない質だ。
 
 おかげで「天声人語」とは、新聞を敬遠するわたしにも、母を通じて思わぬ縁を持つようになったが、次のようにも思うんですね。

 つまり、読むだけではダメだ、書くことだ、と。そのよさと同量の困難は、ここで述べるつもりはない。やってみればわかるからだ。しかし、困難のない学習は、果たして身につくのだろうか?! 

 国語の力をつけるいい問題集なんて、そもそもあるのだろうか? 塾に通って、それも数少ないいい先生にあたって国語の授業を受ければ、読解と答案に対するごく少量のテクニックと平気でするミスを防ぐ術は習得できても、本人の持てる国語の力そのものまでには、大きく影響が及ぶものではなかろう。

 書くという行為は、主体的そのもので、誰もその代わりをやってくれるものはいない。このこと一つとっても、いまの生徒の国語に対する学習行為そのものは、学校でも塾でもまた自分の勉強に措いても、教科書や問題集をし、他人の説明、解説を聞いても、その気持ちと行為がそもそも根本的に主体的でないものだから、自ら考え鍛える姿勢には程遠く、待っておればなにかしら与えてくれるのではないかといった、非常に受身的な勉強姿勢になっているように感じられる。これで一体どうして、国語の力をつけることができるのであろうか。

 主体的行為はどこでもできる。我が愚息と我が母に共通するのはコタツなのだが、わたし自身の姿もふと振り返れば、脚立にも似た小さな台にパソコンを載せ、これを座って書いている。立派な机の上だけが書くところ、勉強するところではないでしょう。学校や塾、教科書や問題集などが、まあ仮に机とするならば、「天声人語」などを筆写するのはコタツにあたるかもしれませんね。

 世間はね、あまりにも机を追求しすぎている。もっと身の周りに、国語の力をつける材料が転がっていると思いますが。

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 以下、或る中2生の質問、「国語の力をつける勉強のしかた」をホームページ上の掲示板で受けて、その返答の一部を修正したものです。ご参考にでもなれば。

 「天声人語」 朝日新聞の、一面の下に載っているもの。その他の新聞でももちろんいい。それに類したものがあるから。
 (読売新聞の場合「編集手帳」。毎日新聞の場合「余禄」ですね)

 それをノートに書き写す勉強。これは昔からの、国語力をつける定番の方法だけど、やっぱり勧めるよ。大学ノート2ページ使い、縦書きに、1行ごと書く。段落わけは当然しなければならない(その印は、▲や◆)。そうすると、1ページと半分を使う感じになる。余白は、漢字や知らない語句の勉強にあてる。

毎日するとしんどいから、2日に一回書く。週に3回でいいと思う。それくらいならやろうと思えば出来る筈だ。何でもそうだけど、最初は時間がかかるからね。慣れれば、たいしたことなくなる。その慣れるまで、習慣化できるまでが勝負だ。我慢。まず、1ヶ月、やってみたれで、してみてはどうだろうか? それが出来れば、後は続く。

漢字などでわからない場合、辞書を引くのが面倒なら、お母さんやお父さんに訊けばいい。要領も、手抜きも、ありで。