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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§20 国語について思うこと VOL.1 
<嗚呼、国語の力・・・>
 
 今回は国語について述べようと思ってるのですが、その気持ちは明るくありません。わたしは既にVOL.1〜VOL.19で述べてきましたが、中学の数・英・社については、生徒の学力と実態、またその指導方法、学習のしかたについて、一応それなりの理論、ノウハウを確立したというか、自分なりの考えを持っているつもりです。

 ここがダメだからこうすればよい、そんな甘い勉強のしかたでは実力がつかない、こういうふうにするんだと、問題点とその解決方法を書いてきました。問題点だけ論い、現状を嘆くのは簡単なこと、それは単なる愚痴の延長上のものでしょう。

 これをお読みいただいてる皆様は、学習情報を得よう、或いはそのヒントになるものはないか、と考えてるのでのあって、不毛の意見、価値のない無駄話を聞きたいとは思っていない、と筆者は思ってます。それゆえ、今回は教えた経験はあるものの「国語」についてはスペシャリストではないわたしにとって、現状の問題点の指摘、私見を書くことは出来ても、その対策、解決方法を具体的に書けないということを、まずお知らせしておきます。

 では何故、書くんだ?という厳しい読者の声が聞こえてきそうなので、言いますが、人の問題点、生徒の問題点の指摘も、何らかの参考になるか、反面教師として捉えられるかと、愚考しているからにすぎません。

 随分前置きが長くなりました。ここからは完全に私見です。教育学がどうの、生徒指導がどうの、国語教育をどうすればいいか、といった固い論議は知りもしないし、知りたくもない、また生理的にも好みません。ただ感じるのは、生徒の著しい国語力の低下、衰退に、どうしたら立ち向かえるかという感慨は、その現実の波に大きく流されるばかりで、ただただ呆然唖然としている自分の」姿があるだけです。

「国語力」をどうすれば上げられるか?という問いに対し、わたしが唯一その解決方法として答えられるのは、「読書」しかありません。一番オーソドックスな、誰でも知ってる、何のことはない、隣にある答えみたいなものですね。けれど、これに勝る方法はあるのでしょうか。
 
 そもそも国語の力というものは、他人から与えられるものでしょうか?――
 少しく傲慢な言い方ですが、小学校では先生から国語の学習のしかた、音読、作文の書き方(とても下手でしたし、嫌でしたね)、辞書の引きかたなど、さまざま教わりましたが、中学、高校では教わったという記憶が殆どありません。

 どれほど国語を教えるのが上手な先生がいたとしても(少ないですね、特に小学校で。10人に1人くらいじゃないかな。またそれほど難しいといえますが)、またどれほど良い教材に恵まれたとしても、学ぶのは生徒自身です。算数・数学みたいな一定の公式、明快な答えがあるわけではありません。英語のように文法、単語力、熟語が大きくものを言うものでもない。理・社のように
理解と暗記が必要なわけでもない。

 逆に言えば、他の4教科は多少生徒の能力に差はあっても、教える<面>というものがあって、教師、生徒がその面の中で、考え、理解、暗記、学習していけばいいわけです(中学までは)。少々乱暴な言い方ですが。それに対し国語は、<空間>みたいなものだ思います。

 うーん、どう言えばいいのかな、文章では長すぎますね。例えば、

「くれないの 二尺伸びたる ばらの芽の 針やはらかに 春雨の降る」

 諳んじているのを適当に書きましたが、漢字とひらがなの用い方が原文と誤ってるかも知れませんが、ご容赦いただいて、まず<面>でいいますと次のような学習と問いになるかと思います。
  短歌とは、五・七・五・七・七の三十一音で出来た定型詩。句切れというものがあって、初句切れ、二句切れ、・・・、万葉集は五七調で力強く、古今集は七五調で優しい。表現技法としては、定まった語につけて調子を整える「枕詞」、(掛詞は高校ですね)、比喩、倒置法、体言止などがある。このようなことを基本的に学習する筈です。

 では、問い。正岡子規は雑誌「ホトトギス」を主宰し、俳句にも力を注ぎました。
 「あかとんぼ 筑波に雲も なかりけり」という俳句について。
 (問一)季語と季節を書きなさい。
 (問二)切れ字にあたる言葉はどれですか。

 では、<空間>でいいますと、どうなるか、短歌にて。
 「作者、正岡子規は、脊椎カリエスという重い病に罹っており、体を少しでも動かせば激痛が走 るという状況の中で、病床から裏庭を眺め、この短歌を詠んだものである。あなたのこの詩に  ついて感じるところを、200字程度で書きなさい。」などの問い。

 位相の違いがお解りになるかと思います。

 正岡子規の有名な短歌。私どもの小さき折は、小学校か中学で習いました。写生主義を唱え、短歌と俳句の世界に革新を起しました。短歌では根岸短歌会を作り、また多くの門下生を育て、俳句の中では高浜虚子、河東碧梧桐のような優れた俳人を輩出しました。その人々の作品も中学時には読みましたし、また自分で短歌に関する本を好きなように買って調べたり、いろんな作品に触れたりしました。

 今でもわたしの本棚に中学2年のとき買った、石川啄木の『啄木詩歌集』って歌集がすっかり古ぼけてあります。その中の、「一握の砂」に、
「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」を読んだときの感動、印象は昨日のように覚えています。

「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」
「かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川」
 などは、教科書に出てくるあまりにも有名な短歌ですね。

「たわむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」
「やわらかに 柳あおめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
「石をもて 追わるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」
「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あいだより落つ」
 などは、自分で勝手に知りました。

 もちろんその意味するところ、背景、作者の苦悩などわかるはずもありませんし、理解も浅く、中途半端な状態でしたが(今でも)、短歌の世界に半歩踏み入れて、その世界のとてつもない拡がりを新鮮に感じ、また意識するところとなりました。自分でも知らないうちに、ほんの少し何かを掴んだと思います。

 これくらいのことは当時普通でしたし、何も自慢できることでも誇れることでもありません。自分の体験上のことを敢えて書いたのは、国語の<空間>を極一部ですが、説明したかったからです。

 国語の教科書は<面>です。学校の国語も塾の国語も<面>の勉強しかしていません。これを否定しているのではなく、とても重要で且つ土台なのですが、それだけでは<空間>にならない、と言ってるのです。<空間>とは、言い換えれば中学の場合、「読解力」、「表現力」と呼んでもいいかも知れません。

 <空間>形成は自己作業であり、誰一人手伝ってくれるものではない。また、見える道もありません。即ち、「読解力」、「表現力」が足りないからそれを養うために他人に期待しても、それは根本的に無理な相談でしょう。それを高める本、問題集があるとすれば、今ごろ100万部、いや1000万部以上のベストセラー、ロングセラーになっているでしょうね。

 でも実際、その辺がわかっていない生徒、お母様達の如何にに多いことか。話が長くなりそうなので、次回にそのあたりの現状と生徒の問題点を書き続けたい、と考えています。