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§278 理解と暗記について VOL.2 <改訂>
<理解を支え、持続させるのは暗記>
丸暗記は単純でつまらない作業と書いておりますが、果たしてそうか?!
<この続きから>
「暗記」のなかのひとつして「丸暗記」があるかと解釈しますが、この言葉には負のイメージのレッテルが貼られていて、たとえばテスト前の一夜漬けのようなその場しのぎの勉強がイメージされるので、これをまったく否定するつもりはわたしにはありませんが、前回より述べようとしている暗記とはその意味合いが異なりますので、あくまでわたしの使用する暗記は、それ以外のふつうに行われるさまざまな暗記と捉えていただきたい。
‘暗記’は単純でつまらない作業です。この文章で正しいのは、‘暗記’は単純で、までであろう。単純であるがゆえにつまらない、と思うのは、もちろん自由だけど単なる主観であって、この主観の位置にあえて立てば、わたしは‘暗記’は単純だけど別にキライではない、むしろ好きなほうかもしれない、となるかな。
世のなかには、わたしらが一見単純でつまらない作業に思えるようなことを気の遠くなるほど延々と続けて、また積み重ねて、その規模の大少関係なく壮大にものをあるいはほとほと感心する作品を創りあげる人が、多数いますよね。人体に悪い影響を及ぼさないため化学肥料をあまり使わず、そのため腰を屈めて採っても採っても毎日のように伸びる雑草と格闘し続ける農家の人の話。これを単純でつまらない作業とは誰も考えな作業もあるでしょう。単純な実験と調査を数年も繰り返してやっと製品化にこぎつけるものもあるでしょう。このようなことをちょっと思い浮かべればいくらだってありそうですが、そもそも我々の日々の生活のなかですら、食事作りから掃除、洗濯、その他家事全般、単純といえば単純、しかしほんとに大切な作業の繰り返しをつまらないとは思わず(ときに思うことがあっても)、ふつうにまた懸命にやっていることでしょう。
ゆえに、というわけではありませんが、そんな道理を書くまでもなく、‘暗記’を単純でつまらないと感じるのは、勉強に手間と時間をかけたくないだけの単に甘ったれた感情の部分が大きい、とわたしは思っています。もし単純な作業をつまらないと思うなら、勉強だけではなく多くの仕事にも上面だけなぜてその大事さに気づかないことになるだろう。
さて、「この文章で正しいのは、‘暗記’は単純で、までであろう」と書きましたが、ほんとうのところ‘暗記’は単純で、とは考えていない。よしんば単純であっても、そこにいろいろと工夫をしたり、気分の転換を図る術を採り入れたら、ずいぶん面白く取り組めるのだ。新しいことを理解し、納得することだけが、勉強の面白さではない。
そこを教えたり実際の学習のなかで折に触れてアドバイスをしたりする教師はほんとに数少ないだろうし、また期待することも難しい。その具体的方法(即ち、奇抜なものではなく平凡なことです)を2、3例を挙げてみてもほとんどたいした意味はない。なぜなら、たとえわかったとしてもやるかどうかは本人次第であろうし、勉強に手間と時間をかけるという当たり前の心根、気持がまずその根底にあって成り立つであろうから。つまり、生徒自身が自分に適ったものを見つけ、改善と工夫を積み重ねて実践していくことが、なにより求められるのでしょう。
これができないから、またはわかっていないから、勉強のしかたをどうすればいいかとか、効率的な勉強のしかたやコツを教えてほしいとか、そんな大まかで実は捉えどころのない空虚な質問を、中3になっても(高校生でも)平気でネット上に溢れるほどしているのをみるけれど、嘆かわしいといわざるをえない。
前回のVOL.1で学習全体を10とした場合、ほんとうに実力をつける勉強のあり方でいうなら、「理解」:「演習」:「暗記」=2:4:4の比重くらいになると書きました。しかし理解を支え、持続させるのは暗記でしょう。これがわかっていない。演習のなかでも暗記は深めていかねばならない。これもわかっていない生徒は多い。暗記のための暗記もときに泥臭く無心にしてゆかねばならない。3つの学習に跨って、暗記は学習全体を支えているのである。その結果持っている力が、実力でしょう。
前回と今回述べた内容が、学習を進めていく上でのなんらかのヒントまたは反省する視点の材料にすこしでもなればさいわいとするところです。
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