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§263 繰り返しの学習について
<強さを培う>
なぜ成績が上がらないのか? その答えのひとつは、繰り返しの学習の不足およびその不徹底にあるといえる。では、なぜ成績が上がるのか? その答えのひとつも、繰り返しの学習の励行およびその徹底にあるといえる。
この箴言(?)だけで、今回、言いたいことのすべてを尽くしていると思うのだけど、それではメルマガの体を為さないので、すったもんだ、あと書いてみる。
繰り返しの学習の効果は、やはり大きいものがあるのだろう。なにやら他人事のような書き方であるが、わたし自身の体験では中学のとき、繰り返しの学習はそれほど行わなかった。気分の底に、一度やったものは二度やるのはイヤだ、という感情があったようにおもう。それは、一度やったものは大抵覚えていて、新鮮味もなく、新たな興味も湧かなかったからである。
こう書けば聞こえはいいが、実質は、非常にのろい勉強方法であった。「一度やったものは」の一度の内容が、人の勉強より数倍は手間と時間をかけたものであり、くどく、納得いくまで、まあ勉強というかその輪を拡げた作業をしたように思う。たとえば社会などは、過去のメルマガでも書いてあるけど教科書の範囲の知識は最低入れるとして、地理なら地図帳をアキルほど眺めたり調べたり、それで物足りなくなると、自分で画用紙に地図を描き、河川、平野、山脈などに色を塗り、統計などのグラフを書き、最低限の必要とする情報を自分で選択し書き込み、とにかく自分流の地図を何枚も仕上げては部屋に貼っていた。理科も同様である。ノートまとめはもちろんのこと、試験管、フラスコ、ビーカー、アルコールランプなど実験道具、安物の顕微鏡などを少しずつ買い足し、水の電気分解や合成などできるものではないが、危なくない化学実験や簡単にできる光合成の対照実験、細胞の観察などは、自分の部屋(三畳しかない小さな部屋)でやっていた。
この勉強半分、遊び半分の作業は、知的好奇心(?)もこの年頃にはすこしばかし旺盛なようで愉しく、そういったことが学習した知識をより深く確かなものにしたのであろう。数学や英語、国語となるとまた勉強のしかたは異なるわけだけど、そしていまよりもずっと内容の豊富な教科書で勉強したことになるが、それでも教科書の範囲には留まらずいろいろと自分なりの輪を拡げて、寄り道しつつ勉強したように思う。そこには「努力」とか「必死になって勉強」とか、そういう言葉が当て嵌まるはずもなく、まあとにかくそんな感覚とは無縁の、自由でのびのびした学習行動であった。定期テストの範囲ではもちろん、それなりの勉強をしたわけであるけれど、それを含めた学習サイクルを、ここでは「一度」という言葉で表していますので念のため。二度目は、殆ど要らないのです。
ところが、これもひとつの学習法とするなら、時代が遷ったというのか(しかし、しかたもいれ本質は変わらないんだけどね)、型に嵌まりにくいぶん実践が困難なのか、説明を具体的にしても、またそのなかのやれそうなことを提示しても、真似をする生徒はいませんね。ああ、そんなものかなと思いますが、ただただ直線的に、そして自分以外のなにかに恃んで勉強をしていくのが、いまの生徒の大方の特長のように感じます。
さて、自分で勉強する場合の学習のしかたと人に勉強を教える場合のそれとのあいだには、当然いまの時代でもギャップや食い違いがあるわけですが、そして現実的に合致させるほうがむしろ珍しいのですが、一般的に申せばやはり、自分でするにしろ人を教えるにしろ、基本の部分で確かな勉強のしかた・進め方というものが存在しますね。それは、繰り返しの学習です。
2つの事例をすこしだけ紹介してみます。
まず一つ目。
四国で、某塾を経営されている塾長さんのお話。
この方は毎年受験が終わってその結果が出た頃に、特に中3の受験指導に関して、その状況と成果を電話でお報せいただいくことがあるのですが、その語り口は熱く、いろいろとわが問題集の良いところをその都度指摘され、同時に問題集を使っての指導の中身、生徒の力のつき方など、詳しく話していただいております。
入試関係の社会、理科、英語の問題集が中心ですが、その徹底した利用、繰り返しの学習と暗記、要点やポイントを説明した部分(プリントはそのように作ってあるのですが)の、生徒にたいするノート写しの義務化など、その学習のしかたには、わたしもけっこうしつこく繰り返しを行うほうですがそれ以上のものを感じ、そして生徒の入試への学力対応ではぐんと伸ばせているとのことですから、この繰り返し学習の意義と価値を第三者の位置で、ふむ、なるほどなるほど、と感心、再認させてもらっているのです。
二つ目。
第254号「私立中高一貫校(高等部)への体験談」のメルマガで既に書いているのですが、ここで再度その一部だけ繰り返し。いろいろと感心させられたことは多かったのですが、そのなかのひとつに、次の内容があります。
「「中3英」と「入試理の攻略」です。<略>「中3英」は後半の私立対策を2回、「入試理の攻略」は確認テストを4回はやりました。(コピーを取ってやっていました。)<略>「入試理の攻略」では4分野の何が出題されても怖くないと言っていました。本当にありがとうございました。娘なりによく何度も繰り返しやったなと思うと同時に、先生の手書き・手作りの教材は不思議な魅力があると思いました。」
このよくできる生徒の勉強のキーワードも、繰り返し、ですね。特に理科については、ここまでやるか・・・、とほとほと感心いたします。わたしでも二度もやれば、よくやったと自分にホメるかもしれませんが、これは平凡なんでしょうね。ただの受身の単純な繰り返しは、その効果も実りも薄いことはよくありますが、この生徒の場合はそうではなく攻撃的で、繰り返しの学習のなかに意志があるんでしょう。受験には絶対的な自信というものは、甚だ脆さも併せ持つことが多いものですが、「4分野の何が出題されても怖くない」という感覚は、それとは似て非なるものがあり、謙虚であるだけに強さがあります。この強さは決して他人から与えてくれません。そしてそれを培う方法のひとつとしてこの繰り返しの学習があることを、是非この際、再認識、また知っていってほしいと思います。
上記2例はたまたま、受験に絡んだ場合の繰り返しの学習について書いたことになりますが、1年生や2年生の現実に行っている勉強の内容を見たり聞いたりするにつけ、繰り返しの学習の意味と大切さを、どうもまだわかっていないように感じることが多いですし、その有り様も、本人はしているつもりもこちらから観ればまだまだ中途半端な段階で終わっていることも多いですね。
成績が上がらないのも、前にできていたことがいまはできないのも、実力が足りないのも、よくミスをするのも、それら原因の大きなひとつに、この勉強の基本である繰り返しの学習の不足および不徹底があるといえるでしょう。充実させてください。
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