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§189 間違い直しについて
<意識の持ちようと自覚が・・・>
今回は、間違い直しについて述べてみたく思います。
「間違い直し」という言葉からすぐ頭に浮かぶものは、ノートを使っての、数学(or算数も)の計算のやり直し、英語の場合、単語・熟語、英文の直し、国語では漢字の直しなどが挙げられるだろうか。これらはどちらかというと単純な作業に属するものですね。
それに対し、たとえば数学で、文章題とか図形の自分で解けなかった問題(当然解いてはみたものの間違いであった問題も含む)を、その解法のもとにあらためて自分でノートにやり直して考え、覚える、という種類の、どちらかというと自分の力の上をいく問題を吸収するための間違い直しもあります。
まあ大別すると、この2つでしょうか。それぞれに問題があるといいますか、間違ったやり方をしている生徒は多いものです。これには二十数年、目にあまるものを見てきたわけで、それに逐一指摘と指導をしてきたのですが、間違いを正すノート直しが、間違いをさらに繰り返していたり助長していたり、あるいは自分のためではなく他人から言われたから単にしているだけといった、そ
んな他人事みたいなノート直しの雰囲気が伝わってくるものが、なかに結構在るから堪りません。
ですから、後者のノート直しとその問題点、またやり方に関しては、すでに何度も今までに触れておりますので、ここでは前者の、単純な部類に入るノート直しの在り様とその問題点を中心に話を進めていきます。
あのですね、初歩の初歩なんですが、それだけにあえて書かねばならないのですが、「なんのために一体間違い直しをするのか?!」をどうやらわかっていないな、という生徒がいること、またその理由をたとえすらすら言えても、実のところほんとうには肌身に沁みて十分にはわかっていない生徒も予想以上に多くいるということ、それも半数どころではないという事実をまず最初に、認識してもらっていたほうがいいかと思います。
まったく理解し難いことですが、そしてこのようなことは、他人から注意も説明もいらない、勉強をする上でごく基本の常識だと思うのですが、ところがどうして、ただ惰性で書いているだけ、果たして覚えようとして書いているのか疑わしい、そんな気の入っていないノート直しをしている生徒を、現実の作業のなかで嫌というほど目にしてきましたので、そこがまず大丈夫か?と問いたい。
間違い直しをした、その行為を目的化していないか? 単純なことをただ単純な作業だけで終わっていないか? 間違い直しのなかに間違いをさらに含ませて、それに気付くこともなく、本人はそれだけで追求の勉強を済ませたと満足していないか? デキの悪いノート直しは、穴の開いたポケットを少し塞いだけで、完全には塞いでいない状態であるから、時間が経つまでもなく同じところで、いともあっけなくまた同じ間違いをしでかすことになる。
そもそも間違い直しというのは、新しい内容を勉強して演習を積み、理解と暗記をし、その基本の学習のなかできっちり覚えるべきこと、使いこなすべき知識を身につけていれば、概ねする必要がないものです。覚えておくべきこと、使いこなして当然のことが一部習得できていなかったから、さらにその補完として行う作業でしょう。
よって単純な間違い直しとは、平然とまた当然であるが如くするべきものではない。普段の演習のなかで不注意だから、考える点が足りないから、基本通り守らないから、また覚えたつもりでも結果十分でなかった、つまりまだまだ表面的で身体まで入る演習が足りなかったから、再度余分なことを繰り返さねばならないわけで、そこを間違い直しをしつつ考え、反省し、また改めていくのが本義でしょう。
その点をしっかり認識し、よく自覚して学習することです。間違い直しをしないですむ日々の学習の在り方とその模索こそが基本となることを、しっかり押さえていてください。確かに間違い直しは勉強のなかで大切な役割をもっているのですが、しかしあくまでそれは、負の勉強であり、ましてや単純な間違いに属するものは尚更で、方向性としてはノートにする分量を徐々に徐々に減
らしていくべきものです。いつまでも同じでは(この形がほんとに多いです)、進歩のない、また実力とも無縁な勉強方法となりますから。
これらの意識の持ちようと自覚が実は、間違い直しのしかたそのものよりも、もっと大切なことではないかと思います。
さて、それがわかった上で、具体例にどういう形のノート直しがいいのか、その場合の注意点は何か、以下少し述べます。いや、これも中1と中2では、また中3では条件や背景が異なるわけで、そして個人差が当然あります。それゆえ共通したところの、肝心な点に絞って書きます。
しかし、ここからは次回に。
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