|
§190 間違い直しについて<続>
<めしべという漢字は・・・>
単純な部類に入る間違い直しとしてまず誰しもすぐ浮かぶのに、英単語の直しや英文としての文法的な間違いなどがありますね。漢字の書きも同様ですが英単語についても、それは不注意による書きミスではなく明らかに間違って覚えたことによる間違いが、もしくは中途半端でうろ覚えが原因の間違いがあるかと思います。
どちらにしても、まず頭にすでに入ったことですし、いったん入ったことはある程度脳細胞に刷り込まれているわけで、体験上いえることは、また皆様もかなり思い当たる節があるかと思うのですが、いったん誤って刷り込まれた情報はなかなか消せないということです。もちろん簡単に修正が利くものもありますが、どういう具合かいつまで経っても間違う、混乱する、あやふやになる
といった、正しく覚えられない、始末に困る記憶というものがあります。それは、覚える対象の難度や複雑さと必ずしも結びついているのではなく、傍から見ればなんでこんな易しいことが、と思えるものや、ごく単純なもののなかにも在ります。
わたしの場合も、そりゃあ人後に落ちないほどたくさんあります。たとえば漢字の話になりますが、「裕」の字がどうも正しく頭に入らなかった。裕の字の偏が、しめすへん(示/ネ)なのかころもへん(衣)なのか、書く段になっていつも曖昧になる。学生時代はきちんと覚えていたようにも思うのだが、その後が・・・混乱し出した。
何度模糊となったか、もう勘弁してくれと我が頭に腹が立ってきて、つまりどうしてもしめすへん(示/ネ)に気持ちが傾く(?)ので、終に漢和辞典でとくと調べてみた。「裕は、衣服が十分にあること、ひいて、ゆとりがある意。ものがありあまってゆとりがある」と解字されていた。ふーむ、納得。しめすへん(示/ネ)でなく、絶対に「衣偏」でなければならないわけだ。それで余裕、裕福の漢字もあるんだな、と。
これなんか極端な例かも知れませんが、何年にも亘ってやっと解決したわけで(恥ずかしながら)、単にノートに4,5回書いたからといって、正しく覚えれる代物ではなかったのです。
思索と散策もそうです。こうして並べると何でもないのですが、散策の「策」の字がどうにもよく間違う。散索、とつい書いてしまう癖は、そして書いてすぐ、なにか不自然であるなあと感じる経験は、これまで幾度か繰り返してきた。
しかし字面としては個人的に好きなので、まあ、それがいけないのだが、どうも頭にしっかりと刷り込まれているのだ。消しゴムでかなり強く消しても、その痕が薄く消えずに残っているのと似ている。
そもそも「散策」とは、「あちらこちら散歩すること」という意味に過ぎないだけど、わたしは「思索しつつ散歩する。あれこれ考えつつ、のんびり散歩する」というイメージで解釈していたものだから、つい思索の「索」を書いてしまうわけです。それに対し「策」の字は、「策謀」「策士」「策略」「政策」といった、謀(はかりごと)に関する語(借用も含めて)に使われているのだから、どうにも散歩には結びつかない、連想しにくいことも原因かと思っています。(これはもちろん浅学の言ですが)
序でに私的なことをもうひとつ。
朝日新聞の天声人語のノート写しを日課としている我が母は、いったんやりだすと止まらない気象を持っているのか、その写した大学ノートは現在25冊目。適当にとか、これこれの事情でとか、わたしならつい手を抜くところを、一日も休まず、倦まず、へこたれず書き綴っている。
流石にそれだけコツコツ文章を写せば、誤字脱字は滅法減ってきて、いまではわたしがそれに付き合って間違いを直すのも稀である。全体に見栄えもよく、とても上手く書ければ、Very
Good ! 次に、Good. OK. そして何もなしと、4段階に評価してみているのだけれど、滅多にないVery
Good !には莞爾として、とても悦んでいる。
そんな中での代表的間違い、ふたつ。
「襲う」の漢字を何度も注意、ノート直しをした。この字は案外よく出てくるものでその都度、龍の字の、右側の横線三本部分をどうしても二本しか書かない間違いをするのである。「龍の脚はたくさんあるじゃろうが。だから三本なんだ」と、訳のわからない説明をして、無理やり納得をさせるのだが、その練習を当人は2回か3回しかしないので、次に出てきたとき、これはまったく学校
と同じで2,3週間先のこともあれば数ヶ月経ってからのこともあるわけですが、すっかり忘れて同じ間違いをしている。
確か三度繰り返したかと思うが、ようやくここで終止符が打てた。以後も度々出てくるがきちんと書けている。
「一度目はただ書いているだけ。二度目から気が入ってくる。三度目にしゃんとして覚えようとする。四度目と五度目は、その念押し。だから、二、三回の練習は中途半端」と、82歳になる我が母に偉そうに言った。まあ、そんな忠告は、ふんふんと聞いている割には実際、馬耳東風、いや唯我独尊であることが多いのだが(反対に、わたしも同様)、なんとかしぶしぶ基本は守りだした。
もうひとつ。
それは、めしべの漢字「雌蘂」について。わたしも初めて眼に触れたのだけど、母の書き写しためしべの字は「雌蘂」の心を4つ書いてあり、どう見ても心4つはしつこく字体としていまいちバランスが悪い。いつも大きな虫眼鏡を使って書き写しているのだけれど、ひょっとして写し間違いかと。そこで新聞をみた。わたしも虫眼鏡を使わないと複雑で読めない。・・・、うーん三つだ。
それにしても「めしべ」という書き方は、そのまま「めしべ」か「雌しべ」のどちらかしかこれまで教科書にも問題集、参考書、その他の書物にも目には触れてこなかったのだが、こんな素敵な漢字(雌蘂/雌蕊の表現もあり)があるとは、ちょっと感動した。芯(しん)という漢字があるが、それより一層優美な感じがしております。複雑そうにみえて、実は簡単な字です。
優美かなんだかよくわからないけれど早く本題に入ってくれ、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、今回はすでに、「漢字」を通して間違い直しの極意(?)と注意点は、三つ四つ書いているつもりです。ご判断いただければと思います。
間違い直しの作業では、複雑そうに見えて実は案外簡単、すぐにストレートに頭に残るものもあれば、反対に、単純でどうみても簡単なものが意外とその後手こずり、なかなか正しく直せないものもあります。現実は後者のほうが圧倒的に多いわけですが、各5回ノート直しをしたから覚えたとか、それで勉強が一応済んだとか単純にまた一律に処理せず、自分で基本となる形は押さえ身につけていても、そのあとの臨機応変の追及と工夫も適宜することが大事かと思います。
実際、たとえば英単語で、tall(背が高い)とmathematics(数学)では、スペリングは誰が見てもmathematicsのほうがややこしく覚えにくいと思われがちですが、tallをtollと書き間違いする生徒とmathematicsをmathmaticsと書き間違いする生徒では、前者(toll)は後者(mathematics)の3倍以上の指導をしなければ正しく覚えない、また直らないのが普通です。
つまり換言すれば、各5回ノート直しをするとして、後者の生徒の場合、mathmaticsをmathematicsと正しく訂正し覚えられたしても(覚える工夫も要るのですが)、tollと書く生徒の場合は、その英語のセンスといままでの学習のしかたの拙さからいって、5回練習を積んだとしても頭に入ることはまずありません。
では、その3倍の15回練習をすればいいのかですが、覚えることに関してはかなりましにはなるでしょうが、忘れないという保証はありません。それよりも、このレベルの間違いをする生徒はこれ1個ではすまないはずで、他にもたくさんあるのが常ですから、かなりの量を稽古することになり、そのため倦んでしまい、同時に注意力も落ちて間違いが混じりがちになるといった、これでは直す意味が却ってなくなるわけで、たとえそのときは何とかし終えても継続することは困難でしょう。よって単純に練習量を増やせばいいとは限らないのです。
ですからわたしの場合、注意を与えつつも、単純な間違いにはあまり過度に量を積むことを控えています。その代わり、間隔をおいた繰り返しの間違い直しの指摘と指示は覚悟しなければなりませんが。時間はかかりますがある程度正しく覚えた量が増え、またその過程で注意すべきポイントを掴み、暗記する要領も徐々に会得していけば、その回数も当然減っていきます。何事も我慢と根気、そして継続する力です。
上記は他者との比較で書きましたが、自分ひとりの場合も同様です。5回ですんなり正しく覚え直せる場合もあれば、いやもっと練習を積まねばこれは頭に入らんぞ、というものも当然あるのです。それが英文となれば5回も書く必要はなく、2回でも3回でもいいでしょう。しかしそのあと、赤ペンを用いて自分が間違った部分をマークして確認したり、音読したり、注意すべき文法を考えたりと、そういう基本は励行すべきですね。
単純な部類に入る間違い直しは、別になんら難しく考える必要はありませんが、単純にこなせばいいというものではないということを、ご理解願えればと思います。そして前回書きましたが、再度ここで確認しますが、間違い直しをしないですむ日々の学習の在り方とその模索こそが、まず知識習得の基本となることを、同時にしっかり押さえていてもらいたいですね。
|
|
|