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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§177 間違った勉強法 
<まずは筆写・・・>

 以前に、「誤った学習のしかたについて <その学習のしかたは軽すぎる>」というのを書いているのですが、勉強のしかたに関する方法で気になる点、特に、それはちょっと間違っているんじゃない?というものが、いろいろな局面や段階で散見されます。それだけに今回もまた、採り上げて述べてみることにします。

 1点に絞ります。それはノートに貼る勉強のしかたです。これはたとえば、高校生に非常に多く見受けられる勉強の姿です。英語のリーダーの本文をコピーし、それをノートの左側に貼り、右側にその和訳をしていくといった方法などがすぐ浮かぶかと思います。

 時代の流れといいますか、すぐ手軽にコピーできる環境にあるいま、大勢の生徒が何の疑いも抵抗もなく、またともすると、そのようにするのが真面目な勉強の一つであるかのように錯覚して、なぜならそれより劣る学習として、教科書や問題集に小さな字でメモ書きみたいに直接書き込んで勉強している生徒が多くいるわけで、さらにはてんで予習も復習もしない生徒もいるのですから、それらから較べると、けっこう積極的な(?)勉強スタイルのように捉えられている面を感じます。

 しかし、果たしてそうだろうか?! 私たちの時代は、周りの生徒はほぼ皆、教科書の本文をそれがどんなに長い長文であろうと、まずノートに写した。それは手間暇かかるものであったが、ほんとうの手間暇は、その後の英和辞書との格闘にあった。英語の教師の薦めで、あろうことかオックスフォードの英英大辞典というものまで買って、英語の勉強に取り組んだものだ。それは流石に荷が重過ぎて、本格的に使いこなすところまでいかなかったが、またいまから思うと、結構無茶な、無責任な勉強のしかたを言われたものだが、研究社のライトハウスの辞書(正確にはその前身なるもの)だけは、手垢がつきぼろぼろにるまで使いこなしました。

 効率という意味では、ほんとその対極にある勉強方法ではあったが、当時はそれが当たり前の、また何の疑いもない、真っ直ぐな英語学習のひとつの姿であったように思う。まあ、問題は、そこから得た結果なのだが、これでもまだまだ努力が足りなかったのか(上には上がいますから)、もうひとつ頭のできがよくなかったせいなのか(恐らく両者)、べらぼうな知識、それを1000覚えねばならないとすると、わたしはいいところ800ぐらいなものだった(これはあくまで主観)。

 ただね、これが正しい勉強方法だとは主張するもりはないけれど、間違った勉強方法だとは、決して思っていない。少なくともベースになる裾野の部分はしっかり固めながら築いていったように、いまだからこそ思う。問題は、頂上の近くまでふうふう言いつつ積み上げたのに、あともう少しのところで力が及ばなかったことだ。

 つまりベースになるところで、この場合は当然英語のことを指していますが、お手軽なコピーなんかしてノートに貼り付けた勉強で長文読解しているようでは、とても英文の本質に迫ることなんかできないぞ、ということです。その場しのぎの対策にはなっても、またテストである程度結果が出たとしても、実力を伴うことはまずありえないでしょう。それは上の表現で言えば、1000覚えね
ばならない学力に対し、せいぜい500に到達すればいいところ、下手すれば2,300止まりになるだろう。

 大学に入ると流石に、そんな正攻法で糞真面目な(?)勉強はしなかったが、いや、する気もどこかに飛んでしまったが、そして英語の教材に直接ちまちま書き込んで、楽で安易な勉強しかしなかったけれど、案の定得たものは何もないし、頭は下降線。

 娘が高校生のとき、一応公立トップ校なるところに通っていたが、周りの生徒が大勢やっているということで、本人もノートに教科書の本文をコピーしたものを貼って長文読解をしていたのを、たまたま目にした。もう高校生になると、勉強に口を挟むことは絶対に避けていたが、これだけは唯一叱り飛ばした。「あほな勉強はするなっ! お前に、そんな頭があるのか?!」と。
 ほとんど意味が通らない、またその理由もくどくど述べない、頑固親父の叱り方の典型か。

 同様に、ではなぜ、ノートに長い長い本文の英文を、手書きで写す必要があるのか、またその意味はなんだ?について、その理由の説明はしない。ほんとうに納得するものは、いつも心のいちばん奥にある思いなのだ。そこがずれていると、また持っていないと、説明の意味はあまりないようにも思える。その代わり、古今の人の例をほんの少し出してみたい。

 ご存知の方も多いでしょうが、長州藩出身の村田蔵六、後の日本陸軍創設者大村益次郎は若き日、儒学、医学を学び、大阪の緒方洪庵の適塾では蘭学(医学も)を修めたわけですが、その当時の辞書というものは非常に高価で貴重、優秀な門人たちが競うように奪うように1冊しかない辞書を、夜を徹し調べ、あるいは筆写した。この人はどんなに偉くなろうと、粗末な湯豆腐だけで人をもてなしたというから、すごい。わたしもその影響で、湯豆腐さえあれば生きていける。

 また同様にやはり、貧しい御家人出身の勝海舟若き日々の苦学。これも有名な話ですが、蘭学に打ち込むことにはどうしも辞書が必要。日蘭辞書「ヅーフ・ハルマ」全58巻の厖大な辞書。買うとなるといまの価格で言うなら、正確なところは知らないが、2〜300万円になるのだろうか。目から飛び出るよな高価で貴重な代物である。それがどうしても要るのだが、もちろん買えない。が、彼はそこで諦めない。それらをすべて、有料で借りてきた(いまのレンタル。40万前後になるのだろうか?) そして、すべて筆写した。気の遠くなる作業・・・。なんとそれも2部作成したというのだから、声が出ない。1部はやはりそれが欲しい或る者に、そのレンタル料に相当する価格で売り、1部は自分のものにした。つまり勝海舟は、金を一文も払わずに、欲しい高価な辞書を手中に収めたことになる。うーん、考えることも奇抜だが、実行に移すのだからさらにすごい。

 手中に収めたのは、目に見える厖大な辞書ばかりではないですね。筆写によってその内容の半分近く(?)が彼の脳裏に叩き込まれたことは、容易に察せられる。

 太宰治の旧制弘前高校時代の(1年生のときか2年生のときのものだったか忘れましたが)、彼の英語のノートを目にしたことがある。それは、とても美しい英文でした。流麗な筆記体で綴られていて、またその英文の内容もかなり高度な表現力であったいいますか、思わずわたしは、うーんと唸らされ、参ったことを鮮明に憶えています。ここまで到達するのに彼も、旧制青森中学時代には相当な英語の勉強を積んだであろうこと、人知れず地道で猛烈な学習のなかに、基本の筆写もかなりこなしたであろうことは想像に難くない。なぜなら、彼は、世に出た秀逸の小説群の前に、その修作時代の原稿数万枚を破棄したのだから。

 また頭に浮かぶのは、宮沢賢治の小学時代から中学の時の彼のノートとメモ帳。ものを観察するとはこういうことかと、それも12,3歳でここまで描いてしまうのかと、溜息まじりに納得感心するその直筆の図や絵は、まさにほんもの。後の彼の素晴らしい数々の作品の基になる息吹と観察眼は、こうして作られたのかと深く納得させられた。

 手塚治の子供の頃の昆虫(たとえばカマキリの)を描いた精写、ゴッホのズンデルト時代の絵やピカソのまだ無名時代の多くの素描など、門外漢のわたしには下手に言及できないのだが、でも後の素晴らしい作品を生み出す前の、水面下にあるとてつもない地道な修練が想像され、それがたとえ将来に対する夢や目的意識などが芽生えておろうとなかろうと、十二分に伝わってくるものがあって、真っ直ぐにこころを捉えられる。


 ノートに貼る勉強のしかたが如何にまだ、皮相な段階、安直なレベルに留まったものであるか、お解りいただけるでしょうか。上記の内容は何も勉強だけに当て嵌まるものではありませんが、また先人の姿勢には、「勉強」というより「勉学」の言葉のほうが、その打ち込む気迫と行動の貫徹において、より相応しい表現であるのは言うまでもありませんが、時代は変われどその本質は普遍、範とするところは多々あるように思います。

 利便性から受ける恩恵は、同時にそれだけの量のまったく反対の負の要因、現象も我々に提示していることが多い。その例証としてはいま、携帯電話のメリットとデメリットを思い浮かべてみればわかるかも知れない。享受しえる利点の反面、弊害もたくさん現れ、そして確実に失われていくものもある。

 高校生の段階の勉強はもちろん、中学生ならなおさら、まだまだ基礎の習得に過ぎず、苦労を厭わない(こんなレベルは苦労とはいいませんが)学習方法を取るべきだと考える。楽な勉強が、目立つ。あまりに多い。

 たとえば理科でも社会でも、要点やポイントの解説など、参考書や問題集で上手くまとめてあったとしても、なぜそれを切り抜いたりコピーしたりしてノートに貼ったりするのだろう? どうして自分の手で書こうと考えないのだろう? 下手すれば、学校での授業でも、こんなばかな勉強のしかたを教えて平然としている教師が、結構多くいるのに驚く。外側を飾るな! 問題は中身だ。
数学も英語も国語も、同様です。

 要点やまとめは自分で、自分の手で、よーく見て、そしてよくよく考えながら、ノートに実際書くんだよ。最初は模倣、どんどん書いていくうちに、これは要らない、これは必要、ここは省く、その代わり別のものから取り入れる、慣れてくれば(ここからが、ほんとうの自学自習の始まり)、自分流にアレンジする、など。見栄えのよい、きれいなノートが、実力を作るのではない。そこに考えた指紋が残り、工夫したあとが窺われ、覚えるために或いは理解を深めるために、自分の言葉を取り入れたまとめがあるノートこそが、時間が経っても容易に剥げない実力を作るのである。

 無論これは、誰にでもできるわけではない。でも、近づける勉強はできるかもしれない。また、間違った安易な勉強を避けることはできるかもしれない。いまの時代、自分の外に、あまりに何かを、いいものを、期待しすぎている。そんなものはたとえ身につけても、所詮借物だろう。自分のなかにいいものを作り出す、そんな努力と注意する目をもっと強く持つべきではないだろうか。