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§396 学習法への批評
<机上の空論には近寄るべからず>
今回はひさびさに、とても辛辣なというか毒舌気味の批評をしてみたいと思います。学習法や勉強にまつわるアドバイスには、たとえ専門家・プロの言葉としても、経験や実践によく裏付けされたとは思えない、かなりいい加減で、それゆえいざすると実行困難なものも多数混じっていますから、その目をすこし養ってもらう材料にでもなれば、という意味で書いてみます。
プロが勧める受験合格のための学習法、なんて情報をよく目にします。
たとえば、
「受験生にとって、10月からの3ヶ月は、合格に向かって一気にラストスパートをかけていきたい追い込みの時期。この季節をどのように過ごすかが、合否の分かれ目になってきます。」
なるほど、たしかにこのとおり(しかし、だれでも知っている陳腐な言い回しにすぎないけれど)。で、次の4つが、アドバイスとして載っていた。
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1.過去問は必ず3回以上解く。
2.制限時間の75%の時間で解く訓練をする。
3.1分以内に解く順番をきめられるよう訓練する。
4.本番におけるケアレスミスの発生は、“やさしい問題にあり”。
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このアドバイス4つのなかでまともだと思えるのは、3番しかない。ただし、それも、過去問のしっかりした勉強と研究をやれば、本番ではすでにどういう手順で問題に当たっていくのがいいかなどはわかっていなければならず、「1分(以内)」もかけて解く順番を決めるなどは、ちとお粗末すぎると思うが、どうか。
1は最後に書くとして、先に2番。
「制限時間の75%の時間で解く訓練をする。」
これは5教科すべてについていっているのか?! もしそうなら、生徒の実情をまったく見ていない言い草である。学校の定期テストや1,2年の範囲の実力テスト、また模擬テストのレベルと、ふざけたことに混同、勘違いしているのではないか? たとえば、実際に入試数学を自分で解いたら、こんなアホなことは恥ずかしくてとてもいえないと思うのだが、無智にもほどがある。この種の訓練が可能なのは(する必要もないが)、科目にもよるけれど、偏差値70を超えた生徒に限られるだろう。
制限時間いっぱい使って、最後まであきらめずに、自分の持てる力をすべて吐き出す訓練をする。これが、基本であろう。
次に、4番の、
「本番におけるケアレスミスの発生は、“やさしい問題にあり”」
について。
違うね。すべての生徒をこれもひと括りにして書いている気がするが、これがもっともよく当てはまるのは、成績中位、平均点前後の生徒である。成績優秀な生徒は、本番の入試にもなると、やさしい問題ではケアレスミスはまずしない。ケアレスミスをするとしたら、応用問題のなかにこそある。それをしないようにするのが、あるいはどうしたら防げるようになるのかを考え、自分なりに対策するのが、受験勉強のひとつの課題であろう。
さて、最後に1番。
「過去問は必ず3回以上解く。」
「入試過去問は必ず3回以上解く」ってのは、ほんとによくあちこちで述べられていてひとつの鉄則のように聞こえますが、果たしてこれは受験勉強のしかたの鉄則か?!
なぜ、「必ず3回以上」も解かねばならないのか、その理由が第一書かれていない(どれもだが)。受験のプロがいってるからとそのまま鵜呑みして信用するのは、できたら避けたい。
プロとっていってもピンからキリまでいるわけで、どの世界、どの職業でも、たいていは並みのプロがほとんどで、ごくごく一部に、とてもすぐれたプロがいて、そして数からいってその3倍くらいは、デキのわるい、信用ならないプロも混じっているものだろう。
そんなことをいうなら、いったいお前はどのレベルだ?と問われれば、まあごく一部のすぐれたプロ、とはとてもいいづらく、まあ並みのプロのなかの、そのなかで、なんとかすぐれたプロではあるかな、と嘯いておきます。
脱線。話を戻します。なぜ「必ず3回以上」も解かねばならないのか、そのもっともらしい理由なんて、わたしでも3つ4つはすぐにでも浮かびますが、デキのよくないプロ(?)の考えの土俵とその論理の延長につき合う気は、ここではありません。
それより、「必ず」って言葉の使い方はなんだ! 寝る前に必ず歯を磨きましょう、なら別に理由も書いていなくてもわかるけれど(しかし、これがわたしはできていない)、過去問を「必ず」3回以上解くことに、いったいどんな合理性と妥当性の理由があるといえるんだ?!
ここでは公立入試の5科目、5カ年分を解くとして、この者がいう3回以上の「最低の3回」をもしやったと仮定したら、どれだけの時間を要するか? 一度目よりニ度目、ニ度目より三度目と時間は次第に少なくてもすむようになるのは当然として、またテスト間の休憩もちょっと入れて、あれやこれやまあすくなく見積もったとして・・・。しかし、どうにもバカバカしい。
バカバカしいけれど、成り行き上、付き合ってこの机上の計算でいくと。
1日に5科目すべて問題を解き、その解答チェックまでやったなら、5か年分で5日要し、単純に3回くり返せば15日はかかる計算になる。実際には、これに解答合わせだけなく、できなかった問題の理解と暗記にも時間をかなり必要とするのがあるべき受験勉強の姿で、まあ倍の30日はみておかねばならないのではありませんか。
しかしこの胸算用もバカバカしいアドバイスの上に計算したものであって、まず1日に過去問1年分、その5科目すべて問題を解くには相当な労力と神経を使うものであって、へとへとになり、そして時間もかかり、土・日にはなんとかできても平日の夜になんか実際できるものではありません。
また、数学なんかの場合特に、1年分ただ解きました、解答合わせをし採点しました、ではまったく話にならないわけで、そこから何を吸収し、自分のものにしたかなどを探り、あるいはまだある弱点を見つけ、それをどう補っていくかの方策を具体的に考え、かつ実践していくかの勉強も、その時にはできなくても次には必要となります。ですから、平日の夜になんかすると、数学の科目の場合、それだけで1日費やすことだってあり得るわけです。
つまり、計算上、余分に倍の30日をみていても「過去問は必ず3回以上解く」を実行するには、どうもまだ怪しいものがあるということです。毎日毎日休みの日もとらず集中して、だらけることもなく、飽くこともなく、そして途中で放擲することもなくできますかって、これは話ですね。
また、もうひとつ指摘しておきたい。
入試問題に臨んで、その前までに、絶対的に必要な知識というものがあります。それに対して、生徒の学力はまちまちです。いま仮に、その必要な知識・学力を、1辺10センチの正方形とする(ほんとは平面でなく、立体でイメージするほうがより正しいであろうが、ここでは簡略化する)。これをすべて塗りたくれば完成である。入試過去問をするってことは、この正方形にぴったり内接する円を描くようなもので、その円のなかをどれだけ塗りたっくても、四隅にまだ塗りきれていない空白が残っている。
それをさらに塗ることが、大事な受験勉強のひとつの姿である。しかし、じゅうぶんな知識・学力をすでに持っている生徒はこれができるかもしれませんが、そうではない生徒は、過去問は必ず3回以上解いても、半径3センチや4センチしかまだ塗れない力であるはずで、この勉強のしかたにはほとんど意味がないことになりますよ。
たった1回、しかし5カ年ぶんをほんとじっくりていねいにやり、もちろんできなかったところや間違った点だけはノート直しをし、「わかる」から「できる」までの力をできるかぎり高め、また自分のまだ力足りない部分をよくみつめ、その補強に努める勉強を追及するのなら、1回の過去問対策でじゅうぶんであろう、とわたしは思っています。事実、わたし自身もそうであったし、塾生指導もこれで通した。まあそれでも、ものすごく時間がかかるものなんです
が。
さて、もうひとつ。
こうした自らの実践に深く根ざしているとは思えない机上の空論、頭のなかだけで考えた粗略疎漏なアドバイスを、つい最近もみかけた。
それは、「親力で□まる子供の○○」って有名な(?)メルマガ。
もうわたしは、「親力」という言葉を聞いただけで不愉快に感じ、虫酸が走って唾棄したくなるんですが。親はただ、子供にありったけの愛情を注ぎ、子供が将来を自分で切り拓いていく土台になる力だけをもしいくらかでも伝えてあげることができれば、そして、子供が将来、その恩に何分の一かでも返すこと(ちょっと考えがカタく、古臭いですね・・・)ができたならば、それは最高である、と単に思っているにすぎません。他人が決めた親力なんて言葉の外套を意識して着ると、とても窮屈に感じ、また重くてしようがない。
それゆえ、この傲慢にすぎる造語とそのアドバイスとなるものにできるだけ近寄らないようにしているのですが、なんの拍子か最近偶然ぶつかってしまった。そのまま書くと若干差支えもありそうなので、すこし作りかえます。
○○の教育番組には「学校放送」というジャンルがあり、小学生の学力向上に役立つのでこの一連の番組をお勧めしたい、と。 小学校1〜6年生のほとんどすべての教科の勉強があって、テレビを有効活用できる。一番組は15分形式、同じ番組が1カ月間に4回放送される。録画して保管・蓄積しておけば、好きなときに見ることができる。
なかには、インターネットで見られる番組もある。
さて、次である。
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「例えば、6年生の理科では『○○○情報局』という番組があり、燃焼、化石、
火山、水溶液、電磁石など必須テーマごとに15分で作られている。 年間20回
放送されるが、15分×20回、すなわちたった300分(5時間)で1年間の理科が
学べるわけだ。」
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ああ、またまたこれも机上の空論。それもエキスだけを単純に掛けた計算。その場の思いつきと都合のよい妄想を交えずに、まず実際に自分でやってみれば? 「5時間」で「1年間の理科」が「学べるかどうか」を。
1枚15センチの紙テープがあります。それを20枚つなげました。長さは何センチになりますか。って首をかしげる問題と、設問のレベルが、あまり変わらないのではないか? のりしろは、どうしたんだ? 親がコツコツ1年間もかけ、録画・編集することになるんだろうが、これも親力なんだろうね。
わたしの場合、そんなめんどうなことには関わりあいたくない。もしやる気があるんなら、お前がやれ、と子供にヘッジするな。これは、いいことではない。しかし、いいことばかりやってられない。いや、いいことはたまにでいい、と思っている。子供がめんどうなことを苦を感じずし続けることができるのは(大人もそうか)、その対象の世界がたのしく、好奇心に満ち溢れるものを与えつづけてくれるからではないか。そこには偶然性と自発性があると思うんだが。
「○○で習う数学図形が7時間でわかる本」とか「高校世界史が5時間で頭に入る本」とかそういった類のキャッチフレーズと、これでは物事の発想がなんら変わらない。
さらに、300分(5時間)で1年間の理科が学べるわけだの「学べる」という言葉の使いかたも、この場合どうもおかしい。「学ぶ」とは、勉強するや学習するよりもうすこし深みが加わり、知識習得への積極的な関わりと意思があるときに用いたい言葉だと思うのだが、テレビで連続しようが分割しようが5時間観ても、それはひとつの刺激にこそなれ、学ぶところからはまだまだ程遠い姿であるのが、その実相であろう。
学習に関する情報、そのアドバイスのなかには、それが専門家やプロの意見であろうが、たんなる思いつきや机上の空論で書かれたもの、つまり、深い経験や長年の観察に根ざしていなく、いざそれにそって実行しようとするととんでもなく厄介で実現可能性が低いもの、また思ってもいない問題点と障害がさまざまに出てくるものが、意外と多く混じっていることに、できたら留意してもらいたいと思っています。
ふだん、こうした内容は、やれやれと呟いてスルーしているだけなのですが、ときには批評がましいこと述べてもいいかなと思い、今回書いた次第です。
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