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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§334 雑学について 
<てんさいは大根の仲間ではない>

 わたしの机のすぐ前にある障子の窓には、ピンで留めた3,40枚のメモが雑然と貼られてあるのだけど、そのうちの1枚にふと目がとまった。日本の農産物に関するまとめのプリントである。いままでにも百回以上目がとまっているのだけど、今回はなぜかこころが動いた。北海道が国内1位を占めている農産・畜産物は、「じゃがいも・てんさい・あずき・大豆・小麦・たまねぎ・米」と「肉用牛・入用牛」などである。

 そのなかの「てんさい」に、わが鈍ってきた頭がなぜか反応した。砂糖の原料は、「サトウキビ」と「てんさい」である。そんなことは誰でも知っている(とは、言い切れないけれど)。じゃあ、日本の砂糖がそのふたつを原料として、どのくらいの比率で作られているのか? それが、ふと疑問に思い、知りたくなったのである(ヒマですね・・・)。

 昔なら、こういうことは、大百科事典などで調べるところである。そういう知的好奇心(?)らしきものというのか、なんでも調べてやれという意欲と追求姿勢は、これでもかなりあった。小さいときに、小さい家でも、なぜか平凡社の大百科事典はあった。父に感謝、母に感謝、ですね。しかしいまは、ネットで検索すればあっというまに知りたい情報が手に入る時代。便利である。簡単である。

 けれども、この便利で簡単な情報の手に入れ方は、恩恵に浴することも多いけれど、同時にともすると、大事ななにかを喪っていくことも意識しておきたいと思うのである。

 それはさて、ちょっといろいろ見たなかで、「○○製糖(株)」のHPが一番気に入りました。砂糖はどんな植物から採れるのか? その説明を大幅に借りて書くと。

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 砂糖の原料は主に、「甘蔗(かんしょ)、サトウキビ)からとる「甘蔗糖」
と、「甜菜(てんさい)、サトウダイコン)からとる「甜菜糖」があります。
これらはよく精製して不純物を除いてしまえばほぼ同じ砂糖となります。

「甘蔗」はトウモロコシに似たイネ科の多年性植物で、高温多湿を好み、年間
平均気温が20度以上の土地によく生育します。従って、「甘蔗糖」は主に熱帯
・亜熱帯圏の国々で生産され、世界最大の生産国はブラジル、次にインド、続
いて中国・タイ・オーストラリア・キューバなどがあげられます。
 甘蔗はそのままの形で運ばれるのではなく、甘蔗から汁を搾り取り、不純物
を沈澱させ、上澄み液を煮詰めて結晶を作り、遠心分離器で蜜と振り分け、取
り出した茶褐色の結晶(原料糖)を消費地に運びます。消費地の製糖工場では
さらに精製して用途に合せたお砂糖にします。

 一方、「甜菜」は大根に似ていますが、ほうれん草の仲間のアカザ科の植物
で、温帯の冷涼な地域に育ちます。生産国としては、主にヨーロッパのフラン
ス・ドイツなどがあげられます。
 甜菜は生産地で直接純度の高い白いお砂糖を作ります。甜菜の薄片を温湯に
浸して糖分を溶け出させ、溶出液を精製・濃縮して結晶を作ります。
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 な、なにいっ?! てんさいは大根の仲間と違うって? あの、カブをでっかくしたような、桜島大根を小さくしたような白く紡錘形をした「てんさい」は、別名砂糖大根というのに、大根とは別種の植物であると・・・。

 まったく知らなかった(お寒い話で)。その後ウィキペディアで調べると、たしかにたしかに、「テンサイ(甜菜)は、アカザ科フダンソウ属の二年生の植物、大根はアブラナ科の植物で、まったく別種である、と確認された。

 知りたいこと以前に、知っていないことに気づいた。さてこの恥ずかしい知識をなんとか自己修繕し、「じゃあ、日本の砂糖がそのふたつを原料として、どのくらいの比率で作られているのか?」という疑問を追及する。

 上記のページでは、「日本では、国内消費量の3分の2を輸入の原料糖(甘蔗糖)から、3分の1を北海道の甜菜と沖縄・鹿児島の甘蔗から精製しています」と書かれていた。小麦や大豆みたいに自給率10%を切っているのではないかと想像していたけれど、3分の1ならけっこうまだ健闘しているようで、すこしほっとする。

 ついでに書いておくと、原料糖として輸入相手国は、「オーストラリア、タイ、南アフリカ共和国、キューバ」である。これは社会の地理関係の応用知識(難関私立高入試)として、知っておきたい。キューバがあればわかるけれど、それを省かれた場合でも生徒は判断できるように。

 でも、行き掛かり上知りたいのは、「3分の1を北海道の甜菜と沖縄・鹿児島の甘蔗から精製しています」の、その比率なのだ。

 さらに調べてみた。某HPに載っていた。
「国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である」

 生産量は年度によって若干変動があるだろうが、「てんさい約80%:サトウキビ約20%」の比率はしばらく変わらないだろう。サトウキビのほうが高いのではないかと勝手にイメージしていたけれど、実際はてんさい(砂糖大根)のほうが、日本では圧倒的に多いんだなあ。

 他人の雑学の話なんて、どうでもいいし、つまらんことである。しかしそれでも、取るに足らぬ雑学的知識を得るひとつの過程を書きました。ではなぜ、書いたのか?

 それは、小学生のあいだに、こうした雑学の勉強をできる限りしてもらいたいからです。いいえ、ぜひしておくべきだ、と思うんですね。別に私立中学進学を目指さない限り、時間はじゅうぶんあるでしょう。算数だ国語だという勉強以外に、また理科も社会もという以外に、できればこうした学習の枠から離れたところで、「いろいろな知識の習得のしかたを学び取る訓練」をしておくことが、将来的に役立つかと思うのです。

 この役立つところというのは、ふだんは決して目には見えないけれど、学力の根底を強力に支える部分になります。これは他人がどれほど教えても絶対に与えきることができない部分であり、自分で得るしか術はありません。

 勉強して知識を蓄えるってことは、学校(&塾など)の先生の授業を集中してきちんと聞き理解し、出された問題を演習し、宿題をし、また問題集などを使って家でも再度自分で勉強する、もうこれだけできればじゅうぶんかと誰でも思いますよね。また現実、この作業ができないでいる生徒の、なんと多いことか・・・。それだけにわたしも、ほぼほぼそう思います。

 しかし、妥協せずに書くならば、基本的な学習行動の継続と反復的作業をしていればそれでいいのか、といえば、これはあくまでまだ外からみえる形を捉えているのであって、問題は中身、どこまで自分が追及すれば、目の前にある知識を身体のなかまで染み込ませることができるのか、その習得のしかたを自覚していることこそ望まれるのであって、ここにほんとうの自立学習ができるかどうかの資質が存在し、また確かな実力形成の基があるかと思うのです。

 たとえば、です。砂糖の原料は、「サトウキビ」と「てんさい」である。わたしは‘てんさい’とひらがなで表記していますが、‘てんさい’を漢字で書けるでしょうか? 突然なにをいうねん、とお思いでしょうが、できれば一度チャレンジして書いてみてください。

 どうでしょうか? 〜〜線内の説明のなかでは、‘てんさい’は「○○」と漢字で書かれていました。それも一度二度ではなく、五回も書かれていました。しかし、おそらく20人に1人も書けないのではないでしょうか? だってこんな漢字、いままでに見たことがないのがふつうだろうし、人生うん十年やってきて、書いた経験はまず一度もないだろうから。

 それはそれとして、‘てんさい’をただひらがなで百回書いても、漢字の‘てんさい’は書けません(当たり前だ)。また「○○」と漢字で5回も表記されていても、たんに読むなら別ですが漢字では書けません。漢字の書きは読みの5倍以上の力が要る、とはよく生徒にいいましたが、そのようなことをここで主張したいのではありません。

 雑学でもたんに読んでいるのと、それを自分の手でノートや紙に書いていく、またはまとめていくのとでは、意識の入り方と気づいていく点に於いて、知識習得に格段の差が出てくる、といいたいのです。

 書くことによってはじめて、「甜菜」という漢字が、意識に触れだすというか入り出します。仮に書きの練習10回やって覚えても、もう二度と書く機会に巡り合わない可能性大だし、いずれは忘れるだろう。「菜」は書けても「甜」のほうがね。しかし、もしもうちょっと意識と注意を払って「甜」の字を視るなら、なんだ、簡単な漢字ではないか、に気づくことになる。「舌」が「甘(い)」だもんね。ちなみに「甜(てん)」の漢字を辞書で調べてみたら、「甘い」の意味が載っていた。「甜菜」とは、「甜(甘)い(野)菜」、うーん、なるほど・・・。

 忘れることへの意識、覚え方の工夫、気づくこと、たった漢字二文字のなかでも、いろいろ学ぶことがある。〜〜線内の説明も、たんに書き写すだけでは、その効果は3分の1もない。どうせするなら、効果が出るものでありたい。

 それは、まとめることである。短い言葉で、大事なところを、抜き出し、整理し、そしてそのなかに図や絵や線を入れて、わかりやすいようにまとめるってことは、よく考えることなしでは成り立たない。

 思考力を鍛える訓練なんて、別に数学の応用問題にぶつかったときにだけ、やるものではない。また、急にやれるものでもない。それを鍛える訓練と場は、教科書や問題集、授業のなかにだけあるものではなく、あちこちに転がっているものです。むしろ、後者のほうが多いのではないか。

「サトウキビやサトウダイコンは、太陽エネルギーを利用した光合成によって葉の表面でブドウ糖をつくり、そのブドウ糖をショ糖に変えて茎や根に蓄えます。このショ糖を結晶にしたものがお砂糖です。では、どのようにしてお砂糖をサトウキビから取り出すのでしょう?」

 これもHPに載っていた内容。サトウキビから砂糖になるまでの様子が、ていねいに図解されている。これはもう、理科ですね。

 あらためて説明はしませんが、ここまでの内容をお読みいただければわかるように、この雑学の場合、社会の知識的な疑問から始まって、数学(or算数)、国語、そして理科に至るまで絡み合っています。ノートまとめをすると、その力は、4科目にまたがって要求されることになります。そして鍛えられることになります。

 もちろんこうしたことは最初からうまくできるものではないし、これこれこうしてやるんだよ、とその方法を詳しく述べてもしかたがないものです。一気に思う通りにとか理想的なものはできません。あれこれはじめから考えすぎても、結局そのとおりにはいかないんですから。それでもしかし、自分に興味があるところから、まずは好きなようにやっていくことを、ぜひお勧めしたいと思います。時間をゆっくりかけて。続けていると、そのうちに、わかってくるようになるものです。