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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§306 なにがひどくマズイか
<腹三分で、もうじゅうぶん>

 ネット上の学習情報にはいろいろな形態があり、またその入手のしかたもいまや、実に容易になっているかと思います。が、便利で容易であるがゆえにまた、人は喪うものも相当あり、人類の歴史の進歩の過程を引き合いに出すまでもなく、現在地球上で起こっている人間と自然の困った現象を視れば、否が応にもわかることです。わたしとしたことが、つい大風呂敷を拡げすぎました。縮めます。

 ネット上の学習情報を入手するなかで、もうすでに一部の方は、ありあまる情報のその正体を、薄々ながらも気づき始めたのでないかと、またいまひとつしっくりこない感覚に疲れ、ちょっと距離をおいて見るようになってきたのではないかと、わたしは感じています。

 腹いっぱい情報を喰っても、栄養になるのは10分の1もないわけで、それどころか10分の9以上がひどくマズイことが、よーくわかってきた(少々遅すぎるけれど)。おまけに、カラダにもアタマにもよくない。腹八分どころか腹三分で、もうじゅうぶん。そんな感覚で、わたしはいる。

 なにがひどくマズイか、すこし書いてみる。

・「昨年までいい進学校だった私立が、ガラっと先生が入れ替わり・・、
荒れてる私立もあると聞きます。
塾や学校そして自ら足を運び、調べる必要もあると思いますね。」

 一見、主張の筋が通っているかのよう思えるけれど、読み直してみると、どうもこれ、おかしい。

 先に細かい点を指摘するが、3行目の「そして」の使い方はなんだろうか? 
 言わんとするところはわかるけれど、大人のこうした日本文としてなっていない表現がいまネット上に溢れかえっているのには、もうほとほとなれたといえ気持のいいものでは決してない。

 さて、もっとも簡単な論理。「Aだから、Bである」。
「A」であると、聞きます。だから「B」だと思います。

 では、伝え聞いた「A」の情報が正しいのか? いや一歩下がって、どの程度正しいのか? この場合、「昨年までいい進学校だった私立が、ガラっと先生が入れ替わり・・、荒れてる私立もある」。

 私立としてどれくらいいい進学校なのか、その具体的根拠、実績がまったく示されていないのが、まず一つ。ガラっと先生が入れ替わったとは、どのくらいの率なのか、誇張加減(?)もわからないがその実態が示せていないのが、ふたつ目。さらに一番引っ掛かるのは、たった1年で、私立のいい進学校が荒れるものか?ということ。そういう事例を仄聞した経験はわたしにはこれまで無い。ごく普通の私立校ならあり得るかもしれないが、「いい進学校」が教師の事情でたった1年で崩れるとはまず考えられない。そもそもいい進学校なら、先生の力量で支えている面もあるものの、それと同等かそれ以上に生徒の力量で支えている面もあるのではありませんか。荒れる原因を教師の事情に置くのなら、もともとその学校の生徒のレベルが大したことはないということです。これが三つ目。

 つまり、この「A」そのものがまったくぐちゃぐちゃで、訳のわからない眉唾な情報になっている。「B」の「塾や学校に自ら足を運び、調べる必要もある」というのは、いまの時代、誰しもそのとおりと思っている内容で、とくに大したことを言っているわけでもない。しかし、こうして「A」だから「B」だと思いますとつなげると、「B」がふつう正しい(?)ものだから「A」をつい信じてしまいがち、あるいは鵜呑みにする。

 もうひとつ挙げてみる。

 数学の実力テストで基本的な部分はしっかりとできるが、応用問題になるとまったく解けない。どうしたらいいのか?という生徒の質問に対しての或るアドバイス。

・「基本が出来ていれば、応用問題のパターンを知らなくとも、問題を解けるのが数学です。だから、大事なのは基本です。基本さえしっかり押さえていれば、大丈夫ですよ。」

 これも、Aだから、Bである、のパターン。「A」の部分は「基本が出来ていれば、応用問題のパターンを知らなくとも、問題を解けるのが数学です」。「B」は、「大事なのは基本です。基本さえしっかり押さえていれば、大丈夫ですよ」。

 この人物は、数学の天才か大法螺吹きかのどちらかであろう(二者択一でじゅうぶん)。限りなく100%に近い確率で後者だろうが、これほど無智で無責任なことがよくもいえるものだね。あきれて「A」のデタラメを立証する気も起こらないけれど、「B」の部分もいい加減なことを書いている。

「大事なのは基本です」――それはそうだ。「基本さえしっかり押さえていれば、大丈夫ですよ」――何が大丈夫なんだろうね? 脈絡上応用問題を解ける力が大丈夫なんだといっているのだろうが、もう一度書く、何がいったい大丈夫といえるんだろうね? 応用問題を解ける力が大丈夫でないことは、すでに数学関係の勉強のしかたで30回以上は述べていると思うので、もうここでは書きません。その代わり、次のような生徒の文章を載せてみます。

「学校では基本事項さえ押さえていれば、全く問題はなかったのですが、入試問題に取り組むようになると、それでは、合格最低点に届かなかったのです。それで、塾のない日や休みの日は、応用問題に取り組みました」

 これも「Aだから、Bである」の簡単な論理。「B」の部分はもうすこし、その結果というか実情を書いてほしかったですが、一応「B」は正しいですね。では問題の「A」はどうかというと、これも正しい。正しく書かれた内容がなにもいいというわけではありませんが、上記2つの虚妄に包まれた内容と較べれば、「情報」としてはしっかり受け取れる。

 論理にはいろんな型があると思うが、この誰にももっとも簡単な「Aだから、Bである」の論理(or論理の一部)は手頃で使いやすいものだから、ネット上の「情報」という形のなかで頻繁に遣り取りされれば、悪質な作為性がある無しに関わらず、当然不純なもの、客観性の乏しいもの、事実とおおいに相反するものが無数に含まれることになる。

 ひとつの確かな情報としてしっかり受け取ることができるものは、つまり知識としてしまいこめるものは、ほんとに少ない。年だから、オイシイものはすこしでいい。ひどくマズイものは見たくもないし、できるだけ喰いたくはありません。