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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§301 間違った勉強法<改訂>
<まずは筆写・・・>

 すでに「誤った学習のしかたについて<その学習のしかたは軽すぎる>」というのを書いているのですが、生徒の勉強のしかたで気になる点、それはちょっと間違っているんじゃない?というものが、いろいろな局面や段階で見受けられ、それだけに今回も、再び取り上げてみます。

 ただし今回は、中学生ではなく、想定は高校1年生とします。授業の進度は速く、ひとつひとつの科目の内容は高度になり難しく、ついていくのがたいへん、焦る気持ちと裏腹に、ぼちぼちその学習のしかたに粗さと甘さがでてくる頃でしょう。

 1点に絞ります。それは、ノートに貼る勉強のしかたです。これはいまの高校生に非常に多く見受けられる勉強の姿です。英語のリーダーの本文をコピーし、それをノートの左側に貼り、右側にその和訳をしていくといった方法などがすぐ浮かぶかと思います。

 時代の流れといいますか、すぐ手軽にコピーできる環境にあるいま、大勢の生徒が何の疑いも抵抗もなく、またともすると、そのようにするのが真面目な勉強の一つであるかのように錯覚して、なぜなら、それより劣る学習として教科書や問題集に小さな字でメモ書きみたいに直接書き込んで勉強している生徒が多くいるわけで、さらにはてんで予習も復習もしない生徒もいるもので、それらから較べるとはるかまし、けっこう積極的(?)な勉強スタイルのように生徒が捉えているふしがあるからです。

 しかし、果たしてそうだろうか?! 私たちの時代は周りの生徒はほぼ皆、教科書の本文をそれがどんなに長い英文であろうと、まずノートに写した。それは手間暇かかるものであったけれど、ほんとうの手間暇は、その後の英和辞書との格闘にあった。英語の教師の薦めで、あろうことかオックスフォードの英英大辞典というものまで買って、英語の勉強に取り組んだものだ。これは流石に荷があまりに重過ぎて、本格的に使いこなすところまでいかなかったが、またいまから想うと、とんでもなく無茶で無責任な勉強のしかたを助言されたものだが、研究社のライトハウスの辞書(正確にはその前身なるもの)だけは、手垢がつきぼろぼろにるまで使いこなしたものだ。

 効率という意味ではその対極にある勉強方法ではあったが、当時はそれが当たり前の、また何の疑いもない、真っ直ぐな英語学習のひとつの姿であったように思う。まあ問題は、そこから得た学力の成果と結果なのだが、これでもまだまだ努力が足りなかったのか(上には上がいましたから)、あるいはもうひとつ頭の出来がよくなかったせいなのか(おそらく両者)、べらぼうな知識、それを仮に1000覚えねばならないとすると、わたしはいいところ800ぐらいなものだった(これはあくまで主観)。

 ただね、これが正しい勉強方法だとはいうつもりはないけれど、間違った勉強方法だとは、いまも決して思ってはいない。少なくともベースになる裾野の部分は、しっかり固めながら築いていったように思う。問題は頂上の近くまでふうふういいつつ積み上げたのに、あともう少しのところで力が及ばなかったことだ。

 ベースになるところで、ここでは当然英語のことを指していますが、お手軽なコピーなんかしてそれをノートに貼り付けた形で長文読解しているようでは、英文の本質に迫ることなんかとてもできないぞ、と指摘しておきたい。その場しのぎの対策にはなっても、また定期のテストである程度結果が出たとしても、それは見かけの力、「実力」を伴うことはまずありえないでしょう。上の表現でいえば、1000覚えねばならない学力に対し、せいぜい500に到達すればいいところ、まずければ2、300どまりになるだろう。

 大学に入るとさすがに、こんな正攻法で糞真面目な(?)勉強はしなかったが、いや、する気もどこかにきれいさっぱり吹っ飛んでしまった。英語の教材に直接ちまちま書き込んで楽で安易な勉強しかしなかったけれど、案の定、得たものは何もないし、頭は下降線。

 我が娘が高校生のとき、一応公立トップ校なるところに通っていた。まわりの生徒が大勢やっているということで、本人もノートに教科書の本文をコピーしたものを貼って長文読解をしていたのを、たまたま目にした。もう高校生になると、勉強に口を挟むことは絶対に避けていたが、これだけは唯一、叱り飛ばした。
「あほな勉強はするなっ! お前に、そんな頭があるのか?!」と。
 ほとんど意味が通らない、またその理由もくどくど述べない、頑固親父の叱り方の典型だけど。

 なぜ、ノートに長い長い英文の本文を手書きで写す必要があるのか、その意味と理由はなんだ?について、その説明をここではしない。する気もない。ほんとうに納得するものは、いつも心のいちばん奥にある意いなのだ。そこがずれていると、また持っていないと、説明の意味は薄れてしまい届かないものである。その代わり、古今の人の例をほんの少し出してみたい。

 ご存知の方も多いでしょうが、長州藩出身の村田蔵六、後の日本陸軍創設者大村益次郎は若き日、儒学、医学を学び、大阪の緒方洪庵の適塾では蘭学(医学も)を修めたわけですが、その当時の辞書というものは非常に高価で貴重、優秀な門人たちが競うように奪うように1冊しかない辞書を、夜を徹し調べ、あるいは筆写した。この人はどんなに偉くなろうと、粗末な湯豆腐だけで人をもてなしたというから、すごい。わたしもそのかすかな影響で、湯豆腐さえあれば生きていける。

 また同様にやはり、貧しい御家人出身の勝海舟若き日々の苦学。これも有名な話ですが、蘭学に打ち込むことにはどうしも辞書が必要。日蘭辞書「ヅーフ・ハルマ」全58巻の厖大な辞書。買うとなるといまの価格でいうなら、正確なところは知らないが2〜300万円になるのだろうか。目から飛び出るよな高価で貴重な代物である。それがどうしても要る。もちろん買えない。が、彼はそこで諦めない。それらをすべて有料で借りてきた(いまのレンタル。40万前後になるのだろうか?) そして、すべて「筆写」した。気の遠くなる作業・・・。なんとそれを2部作成したというのだから、声が出ない。1部はそれが欲しい或る者に、そのレンタル料に相当する価格で売り、1部は自分のものにした。つまり勝海舟は、金を一文も払わずに、欲しい高価な辞書を手中に収めたことになる。うーん、考えることも奇抜だが、実行に移し貫徹するのだからすごい。

 手中に斂めたのは、目に見える厖大な辞書ばかりではないですね。筆写によって、その内容の半分以上(?)が彼の脳裏に叩き込まれたことは、容易に察せられる。

 太宰治の旧制弘前高校時代の(1年生のときか2年生のときのものだったか忘れましたが)、彼の英語のノートを目にしたことがある。それは、とても美しい英文でした。流麗な筆記体で綴られていて、またその英文の内容もかなり高度な表現力であったいいますか、思わずわたしは、うーんと唸らされ、参ったことを鮮明に憶えています。ここまで到達するのに彼も、旧制青森中学時代には相当な英語の勉強を積んだであろうこと、人知れず地道で猛烈な学習のなかに基本の筆写もかなりこなしたであろうことは想像に難くない。なぜなら、彼は、世に出た秀逸の小説群の前に、その修作時代の原稿数万枚を破棄したのだから。

 また頭に浮かぶのは、宮沢賢治の小学時代から中学の時の彼のノートとメモ帳。ものを観察するとはこういうことかと、それも12,3歳でここまで描いてしまうのかと、溜息まじりに納得、感心させられるその直筆の図や絵は、まさにほんもの。のちの彼の素晴らしい数々の作品の基になる息吹と観察眼は、こうして作られたのかと深く納得させられたものである。

 手塚治の子供の頃の昆虫(たとえばカマキリ)を描いた精写、ゴッホのズンデルト時代の絵やピカソのまだ無名時代の多くの素描など、門外漢のわたしには下手に言及できないのだが、でものちの素晴らしい作品群を生み出す前の、水面下にあるとてつもない地道な修練が想像され、そこにたとえ将来に対する夢や目的意識などが芽生えておろうとなかろうと十二分に伝わってくる真摯なものがあって、まっすぐにこころに響く。


 ノートに貼る勉強のしかたが、如何にまだ皮相な段階、安直なレベルにとどまった生ぬるい勉強方法であることに、できたら気づいてもらいたい。上記の先人の姿勢には「勉強」というより「勉学」の言葉のほうが、その打ち込む気迫と行動の貫徹においてより相応しい表現であると思いますが、時代は変われどその本質は普遍、範とするところは多々あるように思います。

 利便性から受ける恩恵は、同時にそれだけの量のまったく反対の負の要因、現象を我々に提示していることが多い。その例証としてはいま、携帯電話のメリットとデメリットを思い浮かべてみればわかるかもしれない。享受しえる利点に対し弊害も数多く現れ、そして確実に失われていくものがあるといえる。

 要領よくとか効率的にとか、そんな考えを追い求めたり囚われている生徒に限って成績はよくないものである。高校生の段階の勉強は、まだまだ努力も苦労も厭わない(こんなレベルは苦労とはいいませんが)地道な学習の姿が、まずその基本にしっかりあるべきだと考える。楽な勉強が、目立つ。あまりに多い。

 英語だけでなく理科や社会でも、要点やポイントの解説など参考書や問題集では上手くまとめてあるものだが、なぜそれをコピーしたりしてノートに貼ったりする学習のしかたにすぐなるのだろう? どうして自分の手で書こうと考えないのだろう? ヘタすれば学校の授業でも、こんなバカな勉強のしかたを教えて平然としている教師もいるから呆れる。外側を飾るな! 問題は内側の中身だ。数学も英語も国語も、同様でしょう。

 要点やまとめは自分で、自分の手で、よーく見て、そしてよくよく考えながら、ノートに実際書くんだよ。最初は模倣。どんどん書いていくうちに、これは要らない、これは必要、ここは省く、その代わり別のものからも取り入れる、慣れてくれば(ここからが、ほんとうの自学自習の始まり)、自分流にアレンジするなど、もっともっと手を使い、頭を使う勉強があるではないか。

 見栄えのよいきれいなノートが、実力を作るのではない。そこに考えた指紋が残り、工夫したあとが窺われ、覚えるためにあるいは理解を深めるために、自分の言葉で表現したまとめがあるノートこそが、時間が経っても容易に剥げない実力を作るのである。