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§241 うまくやろうといった欲望について
<すり切れてなくなってから>
「どんな勉強をするにしても、うまくやろうといった欲望がまずはじめにすり切れてなくなってしまわなければならぬ、とまで極言しうる。」
という、アランの言葉があります。
まさに至言、これは勉強のしかたの要諦であると思っていますが、この言葉に照らしてみれば、一般の多くの質問が、それがどのくらい考えてのまたどの段階に踏みとどまっての質問なのか、そのレベルと深さが、わたしには職業柄おおよそわかります。もちろんわからない場合もありますが。
大抵、内容が判で押したかのように決まって深刻であるのが勉強に関する質問の常ですが、その背景がどうであれ外面に出てくる言葉のなかに、「効率よく〜」という言葉を用いている生徒や父母の方には、あっ、これはダメだわい、と正直返答する気力も起こりません。「効率的」という言葉は、うまくやろうという欲望そのものでしょう。楽して端からうまくやりたい、その方法はない
かと求め、捜す欲望には、勉強の基本ですらおそらくわかっていないはずです。
うまくやろうという欲望そのものは否定しませんが、また初めに持つのはごく自然なことだとも思いますが、それはあくあまで勉強の最初の段階であり、意思というより気分に属するものでしょう。気分というのは移ろいやすいものです。大事なことは、基本の勉強を続けていけば「うまくやろうといった欲望」は次第に消えていくだろうということ、逆に消えていってこそ本物の勉強が始まっているのだといえる。
もちろんその過程で迷いは不安はあるはずだ。また自分の計画するとおりにはなかなか事が運ばす、焦りや苛立ちも出てくるかも知れない。勉強のしかたそのものにも疑念を生ずるときがあるかも知れない。でも、キレイな言い方になってしまうが、そのひとつひとつをふうふう言いつつもまた愚痴をこぼしつつもなんとか乗り越えてこそ、その努力に見合う成績が現れるのであろう。
そしてこの過程を意識するしないに拘わらず、通過したあとには、うまくやろうといった欲望が“すり切れてなくなっている”状態になっているのだといえる。アランの言葉をもう一度みると、「どんな勉強をするにしても、うまくやろうといった欲望がまずはじめにすり切れてなくなってしまわなければならぬ、とまで極言しうる。」である。
わたしの指摘がまだ甘いことがお解かりだろうか。わたしは、「うまくやろうといった欲望が“すり切れてなくなっている”」ことを勉強の姿のひとつの目標のように書いたが、アランは、それがまず勉強の最初に在るのであり、mustであり、「“すり切れてなくなっている”」状態から始まるのが、勉強する者のあるべき正しい姿ですよといっているのですね。
では、うまくやろうといった欲望がすり切れてなくなってしまったあとに何が有るかといえば、それは人によってまちまちであろうけれど、少なくとも2つのものを共通して持っているのではないか。
1つは、勉強にはうまくやる方法なんてそもそもないんだなということに気づいたこと。この精神的ゆとりと心構えはとても大きいね。
もう1つは、うまくやる方法なんて実態がないものの代わりに、基本に則った自分の勉強方法をすでに身につけてしまっていること。さらに、いま自分が何に集中して取り組まねばならないか、またどのように勉強をこれから進めていけばいいのか、その対象と自分の問題点を具体的に正確に掴んで勉強しているといえる。
これをすでに、小学校の間に体得している生徒もいれば、中学3年生にもなってまだ持っていない生徒もいる。もちろん現実は後者の生徒が圧倒的に多い。願わくは、中1と中2の間にこの「うまくやろうといった欲望が“すり切れてなくなっている”」ところまでその勉強の領域が達していてほしいと思うのだが、さてどうだろうか?!・・・。
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