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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§212 親の立つ位置について
<子供の後ろに>

 親の立つ位置について、今回書いてみます。2つの例をまず挙げます。

「英語は、新しく買った○○出版の『△△』というのを現在、息子(or娘)にやらせています。これは1回分が40分設定になっているので、1時間以内で答え合わせまで終わり、効率がいいです。」

「E-juku1stの問題集の数学と英語は今まで結構やって来たと思いますが、できなかったところをやり直したり考えたりしませんでした。それが今になって結果に表れて来てしまったのだと思います。理科と社会は、先生に言って頂いた後もなかなか進まず、結局夏休みに入ってからやった感じで、夏休み中かかって一応一通りやりましたが、まだ浅いと思っています。
 一学期からやっていれば、と反省しています。でも地理は、今までがひどすぎたというのもあるけれど、すごく進歩したというか、わかるようになりうれしいです。」

 上の感想は一般的なものとして、生徒にもご父母にもしばしば散見されるものです。下は、E-juku1stの問題集を○○出版の問題集に置き換えてもらえば、ちょっと我田引水気味になるところを、一般的な形にしえるかと思います。

 さて、両者の比較、明らかにその学習の深さに違いがあるのがお解かりですね。勉強に対する具体的な接近具合というか、考え方に、決定的に隔たりがあります。

 勉強はやらせるものではない。自らするものです。勉強は形ではなく、また時間で計るものでもありません。その学習内容と理解度により、時間が大幅に掛かる場合もあれば、予定より短くすむ場合もあります。常に、ちぐはぐで、計画的にいかない部分もあるのが自然です。さらに、しばしば指摘していることですが、勉強のなかに「効率がいい」という概念を持ち込むこと自体、その
学習の浅薄さと実力の不足が透けてみえます。

 経済学者ドラッカーの主張に、次のようなものがあります。
「知識は、本の中にはない。本の中にあるのは情報のみである。知識とは、それらの情報を仕事や成果に結びつける能力である。そして知識は、人間、すなわちその頭脳と技能のうちのみに存在する」

 中国の古典を読めば、これに類する考え、思想が数多く書かれていますが、本のなかに、勉強でいえば、与えらた教科書やプリント類、ノートや問題集などのなかに、存在する情報をただ呑み込むだけで、よく咀嚼しなければ、一片の知識にもなり得ない。まさにここが、学習の中身のひとつの原点であり、実力の正体でしょう。

 ついでに触れておきますが、難しくてわからないというのは、この呑み込むこともできない状態で、教えてもらって、または解答をみてわかったというのも、まだ十分咀嚼されていないことが殆どなので、このことをしっかり認識しておく必要があるかと思います。

 最近、親力という言葉が一部ではもて囃され、その意味と重さに比重をかけた本や、またネット上でもその種のメルマガが増えているかに感じます。わたしはこの言葉に、情緒的な物言いをしますが、本能的に違和感を感じますし、どうも好きになれない。親力というたいそうなものをそれほど持っていないためなのか、あるいはそんなもん、そもそも教育の場面だけでとり立てて言うも
のでもなかろう、と思っているせいかも知れない。

「子供は親の背中をみて育つ」というのは知恵であり真理であろうと思うけれど、なぜならそこに親の苦労を観ている子供の主体性があるからで、「親力で子供の学力が決まる」というフレーズと発想には、その内容がいかにきれいに聞こえ説得力があるかにみえても、「ゆとり教育」という言葉の使い方やその実態とまったく同様で、恣意的で教育への偏平さの臭いを感じる。

 賢い親なんてそうそういるものではない。しかし、勉強という箍を外せば、世の中いっぱいいるではないか。具体的に挙げれば限がないので書きませんが、少なくともそこで生き生きと発揮されてる親力は、シンプルで素朴なものであろうし、人からああせよ、こうしたほうがいいといった、細かく理屈のある助言で形つくられるものでは断じてないだろう。シンプルで素朴なものが、たっ
たひとつかふたつあれば、それで十分なのだ。そう、思っている。

 勉強に関して、親の立つ位置。
 大きく別けて、3つ。子供の後ろに、子供の横に、そして子供より前に。当然どれがいいかは、殆どの方はわかっておられる。しかし、私立中学受験ともなると、子供の後ろでそっと支えるなんて最初は思っていても、次第にそんな悠長なことはいっておれなくなって、子供の横にそれこそスクラム組んで奮闘邁進している父母が殆どであろう。(わたしゃあ、こういうことは、どちらの立場にしても、とんとできませんが)

 それは省きます。少なくとも中学生の段階での話。生徒の力、通塾の有無、またさまざまな事情によって、その立つ位置は異なるだろうけれど、はっきりよくないといえるのは、「子供より前に」でしょう。最初に書いた例は、まさにそのなかの典型。まだこの例はおとなしい(?)ほうかも知れませんが。

 テスト結果や順位、得手不得手の科目の概況など、要所要所の詳しい情報や分析、そして親としての目線と判断を持っていることはできれば必要なんだけれど(ここは妥協して書いているなあ。生徒自身がしっかり持っていれば、親は黙ってみているだけで良いんだけど)、そうではなく、なかにまるで生徒自身かと思えるほど、いやそれ以上に細々した勉強の中身、学校の授業の進捗具合、その他あらゆる雑多な情報まで知っている方がいます。しかし、そのことと生徒の学力に、因果関係を見つけることは難しい。

 過ぎたるは及ばざるが如し。その目は子供より前に位置して、確かに何もかもよくは見えるだろうが、子供の勉強のしかたの原点、咀嚼する力に視線が注がれていることは、まず、ない! 子供は親の背中をみて育つ、まさにその位置にいて、実はまったく対極の、似て非なるものといえようか。心すべき点かと思う。そしてできることなら、最初に挙げた2例の後者である、その距離間はいろいろあるものの、「生徒の後ろ」に位置したい。