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 中学生の学習のしかた by Toppo
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§153 小学生の社会と理科の学習についてVOL.2<誤ったアドバイスが・・・>

 前回の続きです。
 小6の社会。
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「学校では、大昔縄文から始まって今鎌倉幕府の学習まで終わっています。ところが、息子はさっぱり解らないというか解ろうとしない。自分の側に社会が引き寄せられない。彼の嫌いの言い分は、人名では同じ名前が多くて、時代
考証もまた覚束ないというのです。難しい言葉が多すぎる。公地公民、班田収授の法、荘園など字が難しいだけでなく、公地公民、班田収受の法って、どういうことだった? 荘園って何? 公地公民から荘園へ変わっていく過程が全くわからない。」

「学校の先生は、‘年代’の暗記より、その時代に誰が何をしたか解れば歴史が出来るようになる、また、時代の流れと社会的背景をつかむことが大事だ、といわれたといいます。学校のノートを見ましても白紙同然です。上手にまとめ上げることが出来なければ、指導するのが家庭の役目だと悟りました。」
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 公地公民、班田収授(の)法は説明をしました。次に荘園について。

 荘園とは簡単にいうと、貴族や寺社の私有地のこと。複雑にいうと(知ったかぶり)、荘とは貴族の私有地支配のための事務所のことを指す。大化の改新645年)から始まり大宝律令(701年)をもって、我が国の律令制度が漸く完成するのだけど(長いね、60年近くもかかっているよ)、この頃、飛鳥時代後半から奈良時代になると、鉄製農具が近畿一円を中心に西日本に拡がって、稲の収穫高も増加していく。しかし一方、自然災害が度重なり、また租・庸・調などの税の負担が農民に重くかかり、さらには雑徭などの使役はあるは、都まで年貢を運ばねばならないは、九州の防人や都の衛士など兵役の義務はあるは、一家の中心の働き手は大事なときに奪われるはで、とんでもなく農民はしんどい、また生活そのものも成り立たないことが出てくるわけですね。もうこうなりゃあ、逃げるに限ると、逃散する農民も出てくる(わたしも、そうだおろうなあ)。そうなると、田んぼは荒れる。人口の増加もある。それやこれやで口分田が不足し、新しく土地を開墾して口分田を増やすことを、朝廷・政府は奨めるわけだけど、個人の力だけではなかなか捗らない。そこは有力な力と財力を持っている者が統率して開墾していくのが道理だ。有力な農民(やがて名主になっていく)や、寺社と貴族が中心となる。この裏側の事情は長くなるので省くとして、723年政府は、三世一身の法(新しく土地を開墾した者には親子孫の三世代については、その私有を認める)を出し、その20年後の743年に、墾田永年私財法(新しく土地を開墾した者にはその土地の永久私有を認める)を出すことになる。この2つの法令が、特にあとの墾田永年私財法が荘園発生の決定打になってしまうね。その後の平安時代もこの経済的現象はますます加速され、摂関政治を支える藤原氏のもとには全国から、その保護と利益を求め荘園が寄進されることに繋がっていく。

 荘園が出来るまでの社会的背景と流れを、適当に端折りながらざっと述べてみましたが、それでも冗長の感、否めません。ついでに脱線して書きますが、人口の増加があったのも社会的背景の一因として、教科書や資料集には載っていると推うのですが、それではこの当時、日本の社会の人口はどのくらいであったか? 
 
 誰かの著作のなかで確か、江戸時代の終りの人口は3000万に過ぎない、平均寿命も高々30歳を少し超えたくらいであった、というのを読み、ふーん、そんなものか、と記憶していたのですが、今回少し気になり調べてみますと、次のように記されていました。
1600年 1500万、1650年 2000万、1700年 2300万、1750年 2300万、1800年 3429.7万、1850年 5640.5万、1900年 9276.7万 (現在は1億2,693万人)

 私の記憶違いなのかその筆者の出鱈目なのかはどうでもいいとして、1600年の関が原の戦い当時はまだ、日本の人口1500万人に過ぎなかったというのには、少々驚きです。西軍8万、東軍7万(資料により数値はさまざまですが)の両軍が天下分け目の戦いとばかり関が原でぶつかり合ったのはご存知の如くです。その人数の多さにも瞠目するものがあるのですが、歴史をみる目の尺度にもついつい我々は、現在の生活、文化、環境、情報などを基準に観てしまいがちで
す。人数の感覚も同様です。

 しかし、1億2700万人のなかの15万人の割合ではなく、実際は1500万人のなかの15万人にもあたるので、その割合の感覚はさらにもっと大きなものがあるのですね。さらに上の統計で注目することは、1700年 2300万、1750年 2300万と、人口増加がまったくないという事実(?)です。これは江戸中期、ちょうど8代将軍徳川吉宗の享保の改革(1716年から1745年)の時期に相当します。なぜ、この時期、人口の増加がなかったのか、浅学にして疑問を残すところです。

 貨幣経済が発達し、農村にも問屋制家内工業が浸透し出しています。目安箱の設置、公事方御定書、また新田開発の奨励、上米の制などさまざまな政策を打ち出し、別称米将軍とも言われています。幕府の収入を一応立て直しました。干ばつ、冷害、地震など、天災による飢饉によって農民の人口増加がなかったのだろうか? 享保の飢饉はあったが、しかしそれは、天明の大飢饉、天保の大飢饉に較べて小さいし、百姓一揆、打ちこわしの件数ははるかにこの時期は
未だ少ない。疑問は残る・・・。

 話が膨らみすぎだ。しかしこれらは、あとで言及することと関連はありますので。さて、奈良時代前後の人口。1000万人以下であることは上の資料から容易に類推することは出来ますね。これも調べてみると600万から700万ぐらいらしい。これは記憶でいうと、現在の千葉県の人口に近いかな。

 さて、何が言いたいかというと、人口の増加などもあって口分田が不足したという記述。自分でも書いておいて撞着していますが、どうも納得がいかないというか、わりきれない点も感じる。この少ない人口で、また単純に計算して1世紀かかっても100万人も増えない人口増加率で、そのことが口分田不足の原因に挙げてもいいのか?という疑問です。まあしかし、そのことはこの時代の専門の歴史書を読めば、もう少し見えてくるのかもしれませんから、これくらいにして、話を戻します。

 教える側の問題点――歴史を教えるときにさまざまな小さな工夫がなされているか? 公地公民、班田収授の法、荘園などを説明する際にも、前回に書きましたように、その語句の意味や解釈だけでなく、漢字の意味するところを時に教え、同時に覚える技術も例示していくのが妥当だろう。

 しかし、私自身も翻って考えてみれば、そのような助言、参考になる覚え方とその工夫のしかた、時に教科書から外れた脱線気味の歴史の真実など、小中高を通じて、教師から教わった記憶は皆無である。つまり、多くを教師に期待すること自体、無意味であると心得たほうがいいのではないかと考える。

 たとえば公地公民でも、漢字を音訓読みを逆にして解釈したり、石田三成なんて関が原の西軍の武将の名前は、みつなりでは光成と書いてしまうわけで、「さんなり」とわざわざ音読みを勝手に取り入れて覚えましたが、その小さなひとつひとつの記憶は、あくまで自分流の工夫のしかたと試行錯誤のなかでぎこちなく培った(? いや、失敗を繰り返しつつ学んだ)もので、決して他人
に依存して吸収したものではありません。

「学校の先生は、‘年代’の暗記より、その時代に誰が何をしたか解れば歴史が出来るようになる、また、時代の流れと社会的背景をつかむことが大事だ、といわれたといいます。学校のノートを見ましても白紙同然です。」 と、お母様は書かれています。

「その時代に誰が何をしたか解れば歴史が出来るようになる」
 ばかな、その時代に誰がいたのかも、時がたつとあっというまもなく忘れるのが生徒でしょう。へたすれば、鎌倉と室町の区別も判然としない生徒が、一体どれくらいの割合でいると思っているのであろうか? 自らが教えて、荘園ですら何だったかも認識できない生徒を作り出しているのは、その責任の半分は当の教えている本人でしょう。厳しい指摘になってしまうが、その自覚も反省もないのが残念ながら大方の姿であろう。

 また、意識したわけではないが、上記の荘園に至る歴史的説明では、「誰が」がまったく出てきませんよ(藤原氏、という総称以外)。それでも歴史のある局面は説明できる。つまりこの指摘は、小学生向きに言っているとしても、あまりに単純、幼稚にすぎる。

「時代の流れと社会的背景をつかむことが大事だ」
 これも実によく耳にする言葉。この指導要領から寸借してきただけの、血が通っているとは思われないきれいな言葉に、ときに本人もよくわかっていない曖昧な表現に、多くの人が、生徒が、その父母が、欺かれている。

 理屈として大事であることはわかりきっている。当たり前だ。しかし、もしそれができるのなら、それをどうか見せて欲しい、そして実証してもらいたい。全員でなくていい、そんなことは不可能だ。生徒の1割でもいいから、小学校なら小学校の指導範囲で、中学なら中学の範囲で、前景はもちろんのこと社会的背景までを述べられる生徒を、目の前に連れてきてもらいたいものだ。

 自らが実践できないことを、そして生徒に教え切れないことを、生徒やときにその父母にまで公言して憚らないとは、何たる無智、言い草か!と思う。背景どころかその前景の、大きくてすぐ目に映るまた印象的な歴史的出来事を、言い換えれば歴史を学んでごく普通に吸収、覚えておくべき基本の知識を、多くの生徒が取りこぼしたりわからないでいたりまたは時間の経過とともに混乱したり忘れてしまう事実を、これまでどのくらい呆然として観て来たことか。小学校から中学に上がる時の生徒のその力と、中2から中3になった生徒のその力の、2回もね。

 まあその中3生を、これまで毎年毎年一から立て直してきたわけですが、それはそれは、もうたいへん、まるで1トンの石を渾身の力を込めて動かすが如きで・・・。それにしても限度があるよ、といいたい。応用ではありません、プラスαのやや込み入った知識でもありません(ほんとうはここが欲しいのだけど)、習った基礎の、教科書や資料集の太字で書かれている大切な部分ぐらいは覚えておけよ、いやいや、せめてその半分くらいは最低記憶しておけよと思うのです。

 そうでないと話にならない。その話にならない生徒が2割ならわかるのだけど、現実は逆で、8割にも及ぶ生徒が生み出されているのですから、彼らを前にしてとてもとても、時代の流れや社会的背景など悠長に説いて教えるどころではないことが、おわかりいただけるでしょうか。

 さらにもう1点、付け加えます。
「‘年代’の暗記より、時代の流れをつかむ、また背景を理解する」
 この‘年代’の暗記についてです。

 年代を暗記することは、歴史を掴む上で、また的確に記憶する上で、非常に大切であることは、過去何度も指摘してまいりました。それはまさに記憶の重要な骨組み部分にあたり、欠かすことができないファクターです。

 入試に対してもそれは同様です。
 ここで問題3つ、出してみます。できる生徒は力試しにやってみてください。(解答は一番下に書いておきます)

 次の出来事を歴史的に古い順番から、記号を用いて並べなさい。
1. ア.地租改正 イ.版籍奉還 ウ.学制の発布 エ.廃藩置県

 これは高校入試レベル、それも難度を高くして即席で作りました。ここに、時代の流れをつかむことができますか? また歴史的背景の視点を入れることができますか? 無理です。年代暗記があって初めて、正解が出せます。

2. ア.辛亥革命 イ.ロシア革命  ウ.クリミア戦争  エ.東学党の乱

 これは公立の過去問。大まかな世界史に属するものですね。歴史的事象をきっちりと覚えている生徒は、そして年代も併せて覚えている生徒は難なくできます。それに該当しない者にはとても難しい。

3.1772年、田沼意次が老中になった頃に、もっとも近い世界の出来事を、次のアからエから選べ。

 ア.インドのセポイの反乱がおこる。 イ.中国で太平天国の乱がおこる。
 ウ.イギリスで清教徒革命がおこる。 エ.アメリカで独立戦争が始まる。

 アとイはイギリスの世界的な植民地支配におけるその抵抗で関連、ウとエは市民革命という流れのなかで関連はあるのですが、入試のなかでは一々そんな邪魔くさいことを考えている暇はない。たとえ考えたとしても、アとイの順番なんかわかりませんよ。つまり、これもストレートに、年代暗記が欠かせない問題です。

 これらは、‘年代’の暗記より、という皮相な言葉や考えとはまったく相反する事例です。小学校でその暗記の訓練をしておかなくて、中学校になればできますか? 中学校でさらにある程度多く訓練をしておかなくて、高校になればできますか? たとえばの数値ですが、小学校で30個、中学で100個、せめてそのくらい覚える力を身につけておかなくて、高校でいきなり500個(?)を
覚えることが可能だと思われますか?! 如何に無責任で浅はかなアドバイスであるか、お判りになれるかと思います。

 歴史を学ぶことには様々な意味があります。ほんとうはそこにこそ話題と焦点を持っていきたいのですが、それはまた何れかの折にとして、年代の大切さに関して既に、わたしは重要な手がかりを書いていたのですが、お気づきだったでしょうか? 統計の読み方ですね。1600年、そして1700年 2300万、1750年 2300万です。これはもう、解説をする必要はないかと思います。

(さて、長々と書いてきましたが、焦点がぼけていないことを・・・。)
 
 教える側の時として(実態はかなり多いが)、その教える力の低さ――それはもちろん知識の豊富さを言っているのではなく、ちょっとした視点、何気ないヒント、小さなこだわりなどを生徒に伝えていない、などなど――がどうにも目立ちますが、それと同時に上述しましたように、歴史を学習する際の生徒への助言やその指導理念(?)にさえさまざまな矛盾を抱えている、そして、
ピンぼけなことを言っている、とわたしには思われます。

 いまの時代とくに多くの情報が溢れていますが、それを取捨選択するのは、結局求めている個人に帰します。教育の場とて例外ではありません。学校の先生がこれこれ言われたなんて情報は、そのまま鵜呑みにしないでください。十に一つぐらい急所をついているか、また十に二つ三つ参考になることもあるか、そう思っているぐらいでちょうどよい。そう、思います。

 さて、生徒側の問題。これは次回に述べていきます。

≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠
【解答】
1.ア.地租改正(1873年) イ.版籍奉還(1869年) ウ.学制の発布(1872年) エ.廃藩置県(1871年) 
 よって、<イ→エ→ウ→ア>
2.ア.辛亥革命(1911年) イ.ロシア革命(1917年)  ウ.クリミア戦争(1853年) エ.東学党の乱(1894年) 
 よって、<ウ→エ→ア→イ>
3.1772年、田沼意次が老中になった頃
 ア.インドのセポイの反乱がおこる。(1857年) イ.中国で太平天国の乱がおこる。(1851年〜64年) ウ.イギリスで清教徒革命がおこる。(1640年〜49年・・60年) エ.アメリカで独立戦争が始まる。(1775年〜1783年)
 よって、<エ>