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§352 入試応用問題の勉強のしかたについて <数学の場合>
いままでにもたびたび、入試数学の問題の中身、その勉強のしかたや点数のとり方、また生徒のその実情などを書いていますが、今回はただ一点、その勉強のなかでいちばん勘違い(?)をしてはいけないことについて、これも実は過去に指摘しておりますが現中3生のこれからの受験勉強にも備える意味で、すこしばかし述べておきたいと思います。
入試数学の問題の中身とレベルを、都道府県によって多少違うところもありますがおよそ次にように区分できるかと思います。
ほんとに基礎、中学数学を3ヵ年学び「最低これだけは知っているだろうな、またできるだろうな?」という確認レベルの問題がおよそ40%、教科書中心に習った基本知識の運用をまず無難にやればできる問題が30%、そして残りの30%ぐらいが、応用問題といいますか各生徒の数学の能力と実力を問う問題といえるでしょうか。いわゆる考える問題(その中にはパターン化されていない、いや、され得ない問題も増加してきています)で、高校側が生徒が持つ数学の真の力をみたい、と思っている問題です。
いいたいことからすこしずれますが、ご存じのように数学の入試平均点というものは高くても50点、ふつう46点とか低ければ43点とかそんなもので、上の区分でいえば、基本の確認レベルの問題がおよそ40%、その運用が無難にできればできる問題が30%、このふたつを足せば当然70%ぐらいになるわけで、つまり70点くらいまではきちんと勉強してゆけば取れる点数なのです。
これはこれでとても大切で大きな受験勉強の柱となりますが、今回指摘しておきたいのは、残り30%の、いわゆる生徒が点数を稼ぎにくい応用レベルの問題、考える問題、逆の視点からみれば高校側が生徒が持つ数学の真の力をみたい、という意図のもとに出題される問題に関して、その勉強のあり方です。
より正しくいえば、残り30%ではなくその半分くらいの15%くらいがほんとうにむつかしいというか、考えさせられる応用段階の問題の比率であると考えています。しかし、生徒の目線に立ち、またなによりも入試が終わったあとの、いつも予想からダウンする生徒の現実の結果から観れば、やはり30%としておきます。
この30%(1000点満点中の30点)が、受験対策という名のもとに応用問題の勉強しても、結果まったく身につかない生徒は、冷徹な物言い(?)ながら半数なんて数ではなく7,8割にも上りますが、残りの生徒も実は30%すべてを吸収しきれてはおらず、10%の生徒もいれば20%の生徒もいます。
ここでの勉強がどうも勘違いをしている、勘違いに気づかずやった気になっている、あるいはものの見事中途半端に終わっている、そのような生徒が実に多いではないか、といいたいわけです。
経験上から申せば、ふだん中3の定期テストで90何点か取っている生徒、内申点が5である生徒でも例外でないといいいますか、むしろそのような生徒こそがこの勘違いに陥っていると指摘したいのです。もちろんすべての生徒がということではではありませんが、その7,8割はヤバイように思えます。
「その程度の時間で○○を学びきることはむずかしい。だから、みずから研究するがいい。その研究方法とは、過去の○○の実例からひきだして徹底的にしらべることである。△の原理にいまもむかしもない。○と□の区別すらない。□をしらべることによって○の原理もわかり、□の法則や教訓を○に応用することができる。その他、雑多の記録も読む必要がある。こうして得た知識を分解し、自分で編成しなおし、自分で自分なりの原理原則をうちたてることです。自分でたてた原理原則のみが応用がきくものであり、他人から学んだだけではまだまったく未完成である」
これは司馬遼太郎「坂の上の雲」の第二巻のなかよりその一節を、勝手に換骨奪胎したものであるけれど、応用とはなにか、応用するとはいったいどういうことか、その本質をきわめて適切に表現されているので載せてみました。わたしが指摘しておきたいことも、じつにこの点にあります。(蛇足:「坂の上の雲」はニ十数年前、「菜の花の沖」とともに全巻親しい年配の方からいただき読んだのですが、今回は文庫本を買い直し再読中であります。)
ここまでのことを中学生にもとめようとはまったく思いませんが、これにつながる原型らしきものは、もう持っていてもいいように感じます。
すでにこのことは、HP上の「数学の応用問題を解くときの心構えについて<水が出てくるまで掘る!>」で述べています。もう一度そのなかの、この応用に対する姿勢と考え方に触れている部分をかい摘んで書いてみますと、次にとおりです。
これまでふつうに勉強してきたならば入試数学の応用問題にぶつかると、さまざまな形で問題が解けない事態に出くわすことになります。そこでやるべきことは──。
「なにごとも、やりとげなくてはだめ。たとえば、井戸を掘るにしても、水がでてくるまで掘らなくては、いくら深く掘っても、結局、井戸を捨てたことになってしまう」(宮城谷昌光の著作のなかの、『孟子』の言葉を引用した部分より。)
かなり成績上位の生徒でもこの井戸を掘る作業が、中途半端です。勉強はする。一応数多く問題を解く。入試問題にあたり研究はする。しかし、その多くは、実際、本番の入試では応用問題、それも難問題になると、解けない結果に終わる。これは結局、それまでの勉強で、水がでてくるまで掘っていないからにほかならない。
先生の説明などを聞いてわかったとか、問題集の解説をよく読んで理解したとかの段階は、まだその井戸の、水が出る部分までの三分の一にも到達していないわけで、あとの三分の一は、帰って自分の机に向かい、自分の頭で考え直すこと、ノートに問題を写し、自分の頭で解くという復習が必要でしょう。そしてそのとき、おそろしくまだ自分がわかっていないことがわかるでしょう。それを埋める勉強が要ります。
さて、それでも三分のニの深さにしか到達していません。水がまだでていないでしょう。ここがわかっていないのではないでしょうか? 気づいていないのではないでしょうか? いままでの勉強の理解や質ではいけないってことが。
この残りの三分の一の勉強。とことん考えること。繰り返すこと。たとえばまた、紙に書いてどこかに貼ったり、絶えず目に触れるようにして何度も焼きつける作業などの創意工夫。それらをとおして、問題の核心が見えてくる。はっきりどこがポイントかもわかってくる。やがて、解法の道筋が、くっきり鮮やかに、しかも瞬間に脳裏に浮かぶ。これが水が出た、ということです。
この作業のなかで得られることは、解法の道筋どころか、問題そのものも覚えきってしまうもので、同類問題は見ただけで、ああ、あれか、あれを使うんだなと、考える作業がすばやく、また一直線に問題に切り込むことができる。これは非常に大切なことで、数学は他の科目以上に時間との勝負ですから、だらだら漫然と(9割以上の生徒がこれに当て嵌まるね)解く暇は、本番ではないんです。
さらに、解法の道筋とその急所に至る過程のなかで注意を払わねばならないことがあります。どうしても必要な力、計算、問題文の条件の読み取り方、行き詰まったときの問題文読み直しなど、問題の解法以外にそのまわりに在る解法に至るテクニックにも目を肥やしていくという、そういった知恵も生まれてくる。
これらの力を獲得するためには、ある程度の量の応用問題にあたるのは常識です。しかし、たくさん応用問題を解いたからといって、そのような勉強を塾でしたからといって、それが実際には水が出るまで深く掘っていない勉強ならば、入試数学の本番では往々にして役に立たないでしょう。
上述した「坂の上の雲」の一節、
「得た知識を分解し、自分で編成しなおし、自分で自分なりの原理原則をうちたてることです。自分でたてた原理原則のみが応用がきくものであり、他人から学んだだけでは、まだまったく未完成である」
の意味が、これでよりご理解いただければさいわいです。
「応用がきく」力を獲得するために、基本以外にそこそこ質が高い問題、また良問といえるものを、「自分」で「水が出てくるまでしっかりと掘る」ことが求められているといえるでしょう。その勉強とまたくり返しの演習が、今後の大きな課題だと考えています。
「人間は、意欲し、ものをつくり出すことによってのみ幸福である。」
とは、アラン(フランスの教育者にして哲学者)の言葉ですが、受験勉強もこの意気でやればまた愉し、でありますね。
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