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§134 入試問題の特徴をつかむ?・・・VOL.1
<数学の入試問題において>
――最近の入試問題は、選択式や穴埋め式の問題が少なくなり、記述式解答を求める問題が多くなっている。これは、「学力=知識の量」とする学力の考えから、「思考力、表現力、問題解決能力」を本当の学力とする考え方に変わってきたためで、ポイントをおさえた文章がかけたかどうかが、採点のときの基準になっている。――
公立入試対策に関係する参考文献、問題集ならどこにでも載っている、ありふれて相も変わらず平凡な指摘なわけだが、その対策として、記述式解答のさまざまなパターンに触れ、適切な文章を書けないと高得点は得られないことに言及するも、最後は判で押したように、できるだけ多くの過去問にあたっておくとか、日頃より考える習慣をつけるとか、自分の考えを述べる訓練を積んでおくとか、挙句の果てはしっかり対策を考えておこうなど、何を言いたいのかさっぱりわからない、まるで左の耳から右の耳にすぐ抜けてしまう助言(?)が多くて、生徒にとってはなんら具体的に掘り下げた方策を明示されないのにはいつも呆れる。
しかし、ほんとうに呆れているのはこのことではない。
「学力=知識の量」とする学力の考えから、「思考力、表現力、問題解決能力」を本当の学力とする考え方そのものが、まことにさもありなんと罷り通って、そしてああそうですかとなんの疑いもなく押し付けられている事態に、果たしてこの考え方自体、正しいのだろうか?と、いやいやちょっと違うんではないかと思うんですね。
そもそも中学あたりで、この「思考力、表現力、問題解決能力」を学力として早くも生徒に求めること自体、とんでもなくおかしな話じゃないかと思えてなりません。知識の量=その人間の力とはまったく思いませんが、知識の量=学力として、単純に捉えることのどこがいけないのか、またごく普通の感覚で判断しても別に違和感はさらさら感じない、と思うのはわたしだけでしょうか。
ましてや完成段階の学力では到底なく、発展途上のまだまだ基礎も定かに固まっていないこの時期に、知識の絶対量を備えていくのは当然の、また必然の学習過程の姿だと思いますがね。
その学力の支えになる知識の量を軽んじて、また減らして、その代わりに「思考力、表現力、問題解決能力」を重視し、あろうことかそれを中学段階で当て嵌めようとするいまの日本の学習指導と、そしてその延長線上にある公立入試問題の一部には、ほとほとげんなりするものを感じさせられてしまうものがある。
入試問題で「思考力、表現力、問題解決能力」を問うのなら、中学校の日頃の学習指導の中でそれが実践されていなければならない。そして生徒は、それを学んでいなければならない。ところが現実はどうか?! 内容量が減らされたにも関わらず授業では旧態依然と基礎と基本的なものしか教えないし、その進めるスピードも極めて緩慢としかいいようがない。
ここでもう少し具体的にいいますね。中3の数学では現在、習う単元は「多項式(式の展開と因数分解)」「平方根」「2次方程式」「2次関数」「相似」「3平方の定理」の6つです。学校によりまた教科書によりその進度も習う順番も一部違うのですが、まあ一般例として、2学期の期末テストで2次関数(中間テストの残り部分とかor全体)と相似の前半部分が範囲となりますか。
あとは相似の後半部分と3平方の定理の単元を残すところだけですから、12月と翌年の1,2月で十分消化できるようにもみえます。確かに教科書の基礎的なこと、ややこしくない基本だけを教えていくのなら、この進度で十分です。またその事例が大半を占めるでしょう。
しかしですね、これは受験勉強とその対策期間をまったく考慮に入れない、あるいは無視した、単に基礎をすべての生徒に教えるだけのスケジュールとしか言い様がありません。それ以上のものは何もない。(一部の中学では数・英に措いて、生徒を習熟度別にクラス編成してその力に合った学習内容と指導を行ってはいますが。)
それでもいいとする。では入試問題で「思考力、表現力、問題解決能力」を問うのなら、いつどこでそれをしているのか? 単純にいって最初の3つ、多項式(式の展開と因数分解)・平方根・2次方程式は計算問題ですよ。応用レベルの問題や文章題は少しあったとしても、それはパターン化されており、あまり発展する問題でもないと、あえて断言する(それにのらくら半年近くもかけているとは、開いた口が塞がらない)。2次関数の図形と融合した問題から相似・3平方の定理の図形問題にこそ、「思考力、表現力、問題解決能力」を要求するレベルの、応用問題、創作発展問題が含まれているんでしょう。
ここには実は、かなりの時間と演習、そしてそれ以上に根気の要る説明を繰り返さねば、生徒はまったく理解もできないし、たとえわかったとしても自分自身の力で解くには到底達しないのが、公立中学生のなんと90%以上の現実です。この困難な課題を学校で行っているのか、学習指導と入試で臆面もなく要求するんなら、要求に値するだけでの相当なエネルギーと集中した授業を用いて実践しているのか、そしてそれに伴う時間を必然なものとして割き、とことん指導しているのか?!
その結果を、入試で問うなら話はわかる。が、事実は、思考力、表現力、問題解決能力という言葉だけが浮薄に飛び交っているに過ぎない。自らができもしない、また実践もしない抽象的なことを、調子よくいい加減に掲げてもらっては非常に困るのだ。この欺瞞と無責任さには、ほんとうにうんざりさせられるね。
さらにもう1点、指摘しておきます。
それは新傾向の問題といいますか、規則性を発見し応用する問題、日常の事象に数学を活用する問題、数量的思考を発展させる問題、などに関してのことです。数学的思考力を見るということで大問として毎年出題されるわけですが、これがまた一般の生徒の、大の苦手とする分野です。この種の問題は題材が豊富でパターン化されにくいですから、日頃より多くの問題にあたって解くしかないわけですが、そもそも上記の6つの単元に独立して存在しないのはおかしなことです。付け足しみたいに載っているのが関の山で、生徒は本格的には到底教わらないないし、訓練も積んでるどころではない。
それだからこそ、思考力をみるのにちょうどいいという問題にもなるわけですが、それはしかし、あまりに得て勝手で独善的なお仕着せ、生徒をまったく観ずに思考力という概念だけを夢想した問題作りの姿勢としか、わたしには映らない。しかも、例によって学校では、お茶を濁したような取り扱い方しかしていないのが一般でしょう。
この手の問題はほんと教えるのに時間を費やすし、費やした割にはその解法の本質をつかむ生徒は稀で、ただでさえもう少しパータン化されて見えやすい図形の応用問題にさえ、その解法のポイントと考え方をなかなか吸収してもらえないのが現実なんですね。ここにははっきり言って、他者からではどうしようもない、生徒の持てる、まさにはだかの数学的能力が問われるわけで、少々の努力と演習だけで身に付くものでも克服できるものでもありません。
こう書くと、なんだか否定調子ばかりで、そういった問題には努力しても無駄なのかというイメージに捉られかねませんが、そうではありません。もちろん努力して出来る限り対応する力を身につけてもらいたいのですが、同じ努力と対策をするにしても、その成果が反映しやすい問題作りを入試に対しては望んでいるわけです。
その点で、どれだけ難しい要素があっても私立の入試問題は、素直というか純粋な数学の思考力をみる問題に重点を置いているので(これは昔からの定番的なものですね)、それに向けてへの対策の方向性が一定しており、たとえ解けなくても、それは単に本人の力が足りないだけでのことであり納得はしやすい。
日常の事象から数学を活用するなんて、屁理屈をこいた、手の込んだ素直でない問題、ときにマニアック(この使い方は語法的におかしいのですが、あえてそのまま)としかいいようのない問題には、私立入試に措いてはまず巡り合うことがありえないから、余計な心配や配慮をする必要がない。
長くなりました。論点はもう少し違うところにあるのです。よって次回VOL.2で、この続きを述べさせていただきます。
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