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§80 夏休みは、やはり読書でしょう・・・
<土壌は自分で作るべきもの>
『竹やぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをやめた。三人はまた前のように、重いトロッコをおし始めた。竹やぶはいつか雑木林になった。つま先上がりのところどころには、赤さびの線路も見えないほど落ち葉のたまっている場所もあった。その道をやっと登りきったら、今度は高い崖の向こうに、広々とうすら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまり遠く来すぎたこ
とが、急にはっきり感じられた。
三人はまたトロッコへ乗った。・・・』
ピンと来られた方も多いかと思いますが、これは、芥川龍之介の作品「トロッコ」の一節ですね。私なんかは、たったこれだけで、「うーん、うまいなあ、芥川の作品はどれも」と思っちゃいますが、逆に、昨今のネット上に氾濫している種種雑多な日本語の文章を目に触れるにつけ、つくづく辟易とさせられるといいますか、古きよき日本人としての感性がぷっつり切断されて、そこに見出すことはもはや無理な状況といいますか、内容も文章も乾いていて、ストレスを感じてしまうことがしばしばあります。
Yahoo!掲示板ー学習指導、学習塾の投稿文を時折読むにつけ、そこに載っている内容の良し悪しを論じる気はさらさらありませんが、そのあまりにもひどい文章表現の拙劣さには、閉口されること度々です。他人の批判だけを面白がって書いている一部のマニアックは論外として、だらだら脈絡のない会話調の文章、独りよがりでいいたいことがさっぱり掴めない文章、段落わけも全くなく、句読点も殆ど使わない、いや、使うことを知らないのではないか、としか判断できないような悪文、果ては画面が真っ黒に感じてしまうほど文章を埋めて、読む以前に既に、読者に嫌悪感を十分撒き散らしている文章、など。
表現の自由があるとはいえ、せめて文章作法の基本ぐらいは守ったら、また身につけておいてほしいなあ、といいたくなる文章があまりにも目立つ。文意と内容はともかく、誤字、脱字も目を瞑るとして、せめて表面的な文章の最低の決まりぐらいは、子供の受験だ、やれ私立だ、塾はどこがいい、中高一貫教育だ、国語力はどうすればいい、という前に知っておくべきだと思うのですが。
話がのっけから硬い方向に進んでしまいましたが、子供の状況も国語力に措いては相当深刻で、冒頭の文でも例えば、「雑木林」が読めるのかな?(ざっきはやし、と読む生徒が、中学生でもかなりいると推測します)と思いますね。
中1の数学、文字式の単元で、「次の2桁の整数で、・・・」という問題を読ませると、「次の(にけた)の整数で、」と読む生徒が結構いる。別に間違いではないが、ちゃんとした読み方ではないと、わたしは思っている。「ふたけた」が正しい。そしてそのように指導するのだが、その何でもない基本を小学校時に、どうして教わらなかったのか、また訂正されなかったのか、不思議でなりません。
1桁(ひとけた)、2桁(ふたけた)、3桁(みけた)、4桁(よけた)、5桁(ごけた)、6桁(ろっけた)、・・・。数字のかぞえ方――いち、にい、さん、し、ごう、ろく、・・・。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、・・・。英語で、ワン、トゥー、スリー、フォー、・・・。
遠き小さき日、母から、おはじきをして、「ひぃー・ふー、みぃー、よー、いつ、むー、なな、やー、とう」と数えた声を耳の奥に残していますが、響きの柔らかい、素朴ないい言葉ですね。こんなのを口にすると、
「石崖に 子供七人 こしかけて 河豚を釣りおり 夕焼け小焼け」(佳い風景だなあ・・)という、たしか飯田蛇笏(だこつ、の字が、?マークがつきますが)の作品だと記憶しているのですが、無心に口ずさんだ日々が想い出されます。
中3生に、昨年訊きました。
「自分の知っている短歌、何でもいいから一つ言ってみなさい」
知っている生徒はいませんでした。
最近、中2生に、数学の時間、連立方程式の文章題の読み取りがあまりにもひどいので、
「ここ2ヶ月の間に、自分らが読んだ本、その題名と作者を言ってみろ」
と、訊きました。
予測はしていたのですが、全員見事に、何も読んでいませんでした。
国語で、国語の力がつくのだろうか? 国語の教科書で、文を読み取る力がつくのだろうか? はたまた、国語の先生から、国語の力を根本的につけてもらった経験のある人はいるのだろうか?
国語ほど大切な科目はなく、また人の手で育てられない、育てにくい科目もないでしょう。これは大いに誤解され、曲解される言葉だと思いますが。お母様の中には、このことがわかっていない方が時々おられますね。数学や英語や理科、社会と同じように勉強すれば、力がつく、あるいは成績が上がるものだ、と。それならば、問いたい、「あなたは過去にそうやって学校の先生や塾の先生のお蔭で、国語力なるものがついたですか? その記憶がありますか?」と。
確かに受験に伴うテクニック、知識なるものはあり、また演習によって漢字、語彙、文法なるものは身につけられないことはない。しかしそれは、国語力なるものの全体の、多くて30%ぐらいなもんでしょう。残りの大部分を占める、読む力は、また、表現する力は、一体どうやって身につけるんでしょうね。
まずは、本人ありき!でしょう。これは勉強以前のことですよ。読み取る、表現する本人の土壌そのものが、痩せていて養分も殆ど入っていないとしたら、たとえそこに種をいくら蒔いたとしても、稔りある作物は育たないと思いますがね。
その本人の痩せた土壌をすっ飛ばして、「算数の計算は結構出来るんですけど、文章題になるとどうも弱いというか、苦手で困ります」という言葉は、小学生の親御さんに多数聞かれますが、そのまま肝心なことはせず、公立中学に突入するのが、いま大半のケースでしょう?!
だから英語の授業で、下手すると数学の授業でも、読解力以前の国語の初歩、
「主語とは何か」なんてレベルを教えなければならない破目になる。それがまた、スンナリわかってくれるならいいのですが、もう無茶苦茶な返答を掻い潜りぬけながら教え込まなければならないのが現実でしょう。主語とか述語、名詞、形容詞、動詞ぐらいは最低、小学校で「知っておくべきもの」だと思うのですけどね。
その、べきが、あまりに少ない、いまの生徒は。嘘だろう、と思うほど少ない。それは学校や塾、他人に求めるものではなく、自分に求めることから始めなければならないのではないか。
夏休みだ、だから夏期講習を受けたほうがいいのではないかと、すぐ他に求めないで、自分で出来ること、自分の中に不足していることを静かにみつめて、それをすることも大切なような気がします。その一つが読書でしょう。もっと、本を読むこと。土壌は、自分で作らねば。
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