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§36 わからない、ということについて VOL.1
<わからないの1番目と2番目>
なんか雲を掴むような、大きな永遠不滅のテーマですね。曖昧模糊として、どこから切り込んでゆけばいいのか“わからない”。(ちょっとついでに、“”のマーク、何て名前ですか? 気になる。誰か教えてください)
さて、わからないのに書き出すとは、大胆不敵、ある意味大いに軽佻浮薄、客観的に視て、ちょっと書き疲れてるのかな。支離滅裂にならないことを祈る。
生徒はどういう時に、「わからない」という言葉を言うのであろうか、或いはその気持ちになるのであろうか。その中のいくつかの断面を覗いてみる。
時系列的に並べてみると、
1.新しいことを学んでる際に、どうもいまいちわからないところが出てくる。
2.宿題をしてる際に、これ、わからないや、が出てくる。
3.以前に習ったことが出てきて、忘れてしまってわからないになる。
気持ち的に並べてみると、
4.例えば、数学の文章題や図形の問題を解く際に、文の書いてある内容がよく
わからない、また簡単にわからないと考えてしまう。
5.間違いを指摘されて、その誤りの説明がわからない、ことがある。
6.本当に難しい問題を解く際に、さっぱりわからない、という気持ちになる。
こうしてみると、「わからない」ということは、単なる平面上の問題ではなく空間上の問題であるわけですね。ということは、方向性を持たねば、無を掴む作業になりかねない。全体を捉えようとすると200枚以上の拙い論文が出来そうだ。しかし、その気概も根性も今のところないので、とりあえずは上の6つについて述べてみる。
普通考えるに、「わからない」で頭に浮かぶのは1番と6番の状態です。これをお読みいただいてるお父様、お母様は、そう考えると思われるのですが・・よく耳にする、「わからないところがあれば、先生に聞きなさい」とか、「わからないところがあれば、しっかりていねいに教えてくれるのでしょうか?」いう科白は、主に1番を想定してる。
確かに1番の、「新しいことを学んでる際に、どうもいまいちわからないところが出てくる」は、誰しも経験する至極当たり前のことで、これがどんどん溜まれば、やがて出来なくなり嫌になってしまうでしょうね。その科目はどれかと言えば、英語と数学。特に英語は、中1の基礎の時点でその勉強方法と勉強量を間違えればとんでもないことになるわけで、文法は穴ぼこだらけ、単語
のスペル(例えば、トール・背が高い、tall)も正確に書けない生徒も中に出てくる。
その基礎の上にたとえ新しい文法がわかったとしても、基礎が穴が空いてるものだから、テストではその基礎(例えば、冠詞・?マークのつけ忘れ、文の形の間違い、Be動詞と一般動詞の混同、前置詞がない、・・・)にこけてあまり点数は取れない。
数学はどうかといえば、中1はそんなに難しいことは習わないわけで(しかし、数学について、で触れてるのですが、計算力などの強固な基盤が築けておらず、その力は空洞化してるケースが多い)、仮に学校の勉強について行けたとしても、中2の後半、即ち一次関数、図形から本格的な数学思考が始まるわけで、中3全般の単元をあわせ、思考力、直観力も必要になってくるものだから、わからないことが急に増えてくる感じがし、またテストの点数も比例して下がる生徒が多い。
数・英に較べ、国・理・社はどうかといえば、理科については一部、習う当初からどうもわからない、という単元があるものの全体的には、得手不得手の感覚は別にして、まあ、深刻なわからないは、それほど多くはないといえるのではないでしょうか。
こうして5教科全体を見回すと、1番の視点の「わからない」は英・数に多発しそうですが、教える側の論理から言えば、特に塾の立場から述べるに、新しいことをわかるように教えるのは当然で、もちろんテクニック、コツみたいなのはあるものの、そんなのその道に通じれば誰でも持てることで、特に誇れるものでもない。また、どこが生徒が間違えやすいか、理解が不足しがちか、どの点に注意を払うべきか、などは基本中の基本で、生徒の顔を見れば、わかってるわかっていないというのは、直ぐわかることで十二分に対応できる。
基本でも確かにややこしいところは一部(主に中3になって)あるわけですが、概ねその場では生徒はわかって問題に取り組む。つまり、1番の状況における「わからない」という問題点は、生徒が注意散漫とか、教える方の力量不足(ありますから、注意して下さい)がない限り、敢えて言いますがそれほどたいしたことではない、と考えている。
次に2番目、「宿題をしてる際に、これ、わからないや、が出てくる」について。
「わからない」という声をいつ発してるかが問題。ひょっとして3日後、1週間後に宿題をやっているのではないだろうね?!・・・ 学校でも塾でも習ったことはその日に復習して、自分の頭で考え直すこと、覚え直すことが、とても重要で且つ勉強の基本であると思うのだが、何故なら大事なことを忘れちまうからで、真綿に沁み込むような頭をもっている人ならいざ知らず、大抵の人間は聞いたこと習ったこと覚えようとしたことまで、直ぐに忘れるように脳みそは出来ているのだから。
何度も反復しない限りそれが重要な情報ですよ、と大脳は認めないのだから、一度や二度ばかし脳を刺激したからといって、そんな努力もない情報を大脳ははい、いいですよ、じゃあ覚えておきましょう、と簡単に受け付けてくれるものではない。自然に頭に入る? 馬鹿な! 自然に頭から抜けるのですよ。その自然に逆らって、ある面無理強いしながら脳みそに叩き込むのが勉強でしょう。
ここでちょっと脱線しますが、私はいま、宮城谷昌光氏とその作品に嵌っている。それは盲目といっていいほど彼の小説とその世界(中国春秋・戦国時代中心)に心酔していて、その文体の美しさ、ドラマの構築性、箴言の煌き、そして美しい人間描写に魅了されまくっている。そして、その圧倒的な量の難解な漢字とその使われ方にも。
横道の序でに、読んだ彼の作品を列挙しますと、『重耳(上・下)』『晏子(一〜四)』『子産(上・下)』(この小説から嵌った)『夏姫春秋(上・下)』『きょう骨記』『介子推』『春秋の名君』『春秋の色』『孟夏の太陽』『孟嘗君(一〜五)』『青雲はるかに(上・下)』『楽毅(一〜四)』『太公望
(上・中・下)』『花の歳月』『史記の風景』『沙中の回廊(上・下)』『王家の風日』『天空の舟(上・下)』『沈黙の王』『長城のかげ』『玉人』『中国古典の言行録』『奇貨居くべし(一〜五)』などです。
その中の極々ほんの一部の漢字の用い方を書きますと、例えば「嫩い」(わかい)という漢字とその使われ方。やわらぎ、なんて「和らぎ」しか書けないというか知らないけれど、<注:続きは不明文字が出て、削除しました。>
別に宮城谷氏の作品の紹介をしてるわけではないので、この辺にしますが、言いたいのはそれを読んでる私の頭の馬鹿さ加減です。小説だから、いちいち見たこともない漢字や熟語の復習や反芻はしませんが、それにしても入っては消え、覚えたと思ったことが時が経つと跡形もなく翳んでしまい、まったくあほだねえ、どうしたものかと、数限りなく心の中で呟いている。
多少は歳のせいもあるだろうが、私自身の暗愚な頭脳のせいが大きい。それでも繰り返しでてきたものは、少しずつは頭に残っており、また焼付いている。時間と記憶の関係はよく説明されてるように、反比例の双曲線みたいなもので、1日経つと半分は抜け、3,4日では70%以上、1週間では殆ど風化して覚えていないじゃないの。
新しく習ったものは、その場では自分の頭に乗っかってるだけで、染みていない。染みていないから忘れるのであり、或いはぼんやり覚えていたとしても、そんなのは糞の役にも立たないわけで、やはりしっかりした復習をして、自分の頭で考え直し、染み込ませることが何よりも大切だと思う。
本来それが出来れば宿題なんて必要ない。策としては中策である。けれどもその中策でさえ、デタラメにやるようでは「わからない」のは当たり前の話で、きっちり当日には(何かの理由で出来ない折は翌日に)宿題を片付ける習慣を、中学生は最低持たなければならない。それでも一部にはわからないところは出てくるけど、そんなのは直ぐ習った箇所をじっくり調べれば、大体わかることですよね。よって2番の問題は、「わからない」という以前の自分の行動を省みて、それを改めれば、殆ど済むことではないですか?!
長くなりましたので、3番以降は次回にしたいと思います。
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