高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§132 我が家の現在の急須は釣鐘型
<間違うのがどうしても嫌なら・・・>

 我が家の現在の急須は釣鐘型をしており、ちょっとみはどこかの何々焼きを想わせる趣きもないではない。しかし、底をひっくり返してもみても、そんな烙印はなく、まさにどこかのスーパーで買った代物である。それはいいのだが、片手で湯飲みにお茶を淹れようとすると、きまってその蓋が、湯呑みにすっぽり落ちるのだ。それはまるで計ったようにちゃぽんと湯呑みにきれいに落ち込むから、そしてその周りにこれみよがしに飛沫を撒き散らすから、堪らない。

 指で摘まんですばやく掬いあげることになるが、とうぜん熱い思いをする。把手を右手で持ち、急須を傾けて注ぎ出すのは自然として、50度くらいから45度にかけていざ勢いよく注ぎだそうとするその矢先に、ポロリと蓋が落ちるのである。つまり、傾け過ぎて落ちるのなら納得するのだけど、こちらのこれまで身につけてきた感覚、常識、自然な意識を、有無をいわさずぶちっと切って
しまうのだからとても腹立たしい。人間、自分の習慣を、それも些細であればあるほど、理由もなくいきなり否定されると、とても腹が立つものらしい。

 最初はその小さなできごとに、あれまあ・・・と、目が点になってみていただけだが、二度も同じ目に遇わされると少しは考える。つまり、小さなことには最初の場合、何も考えもせず、原因を分析することもしないのが、大方の人間の習性であるといえる。

 その二度目だが、なぜ蓋が湯呑みに落ちるんだ?と、その不可解な事象を研究する(?)ことになる。息を詰め、口をへの字に曲げて斜めから急須を見つめつつ、傾けて注ぎ出す角度と落ちるタイミングを慎重に計りつつ、しかし、このときもまだ油断があるんですね、意識下にまだ大丈夫だよ、これからなんだ、落ちるのは、と思っていた矢先に、蓋は滑り落ちて湯呑みの中にすっぽり嵌っている按配だ。これを哲学的にいえば、必然が予測を上回っている、とでも表現できようか。つまり平たく言えば、鈍くさいだけの話であるが。しかし、わたしのえらいところは、その鈍くささの中から、必然の正体を掴んだのである。

 それは、急須の釣鐘型の形状そのものに原因があった。イメージしてもらいたいのは、もうたまらなくこの急須は、お寺の釣鐘そのものの姿であり、そのてっぺんにごく普通(?)に蓋が載っているわけで、背丈がそもそも普通のと較べて非常に高い。それに合わせてバランスよく小さければ、あるいは強めにしっかり固定されて落ちない工夫が蓋との間にあればいいのであるが、この急須の製作者はあほなのか、意地悪なのか、それとも根本的にものを作る才能と神経が欠落しているのかと、考えないでいいことをあれこれ脳裏に浮かばせて
くれます。

 ところが、つくづく情けないのは、その次の日の晩にお茶を淹れようとして、即ち一日経過して、その原因追求の努力も痛い目もすっかり忘れている始末だったということ。またもや蓋は、湯呑みの中にぽちゃんときれいに入りました。あう〜と唸りました。同時にわたしの頭の上にも忿りの湯気がのぼりました。

 そうです、大事なことをまだ、ほんとうには「学習」していなかったんです。その非機能性、非常識、無節操、理不尽にも落ちる原因を掴んだまではいいが、では、どうしたらいいんだという対処、解決案まで頭が回らなかったとは、普段は頭のネジが緩んでいるとしてもいただけない。

 そこで考えました。指を突っ込んであちちといいながら蓋を取り出すのは、もうこれ以上嫌だ。で、取る選択肢はまず二つ。お茶を飲むのをやめるか、やめないか。これはやめれば、お茶漬けができないではないか?! そんなばかなことは許されるものではない。では、次の選択肢。考えれるのは三つ。

 一つ。この急須に腹を立てて毀してしまうこと。しかしそんなことをすれば、その代金の弁償ですむどころか、嫁さんに自分で買ってきなさいといわれる破目に陥るのは目に見えている。二つ。この急須の非を唱え、如何に機能性に欠け不合理であるかを説明、はたまた迷惑を蒙っているかをしゃべるも、はいはいと気のない返事をされ、新しいのを買ってくるまで最低一ヶ月は待たねばならない忍耐とその覚悟があるか。いやあ、そこまで耐える気も根性もいまではない。

 三つ。この急須となんとか仲良くすること。しかたがない、この方法を取る。蓋を落とさず湯呑みにお茶を注ぐには、蓋を押さえて淹れるしかないのである。わかりきったことだ。テレビの旅番組なんで見かける、着物姿の旅館の女将さんがお客様にお茶を出すときの、あの手の使い方である。

 わたしはそれ以後、右手で把手を持ち、左手を軽く蓋に添えながらお茶を注ぐスタイルをとるようになった。いや、しぶしぶとらざるを得なくなった。これはよく考えてみると(よく考えないでも)、正しい急須の持ち方ではあるまいか。確かに以前は、こうしてお茶を淹れていたようにも想うのだ。それは教えられたわけでもなくごく自然に身についていた正しい習慣だった。卓袱台に坐って食事をしていた当時の、日本人の普通の作法であった。それがいつのまにかテーブルに坐って食事をする光景に変わり、そのながれの中で見失った、数多くの日本のいい習慣のひとつであったと思う。

 そういう意味で、いまではこの急須の製作者のことを、わざわざ物理的に計ったようにその蓋を湯呑みに落ち込ませるように作ったのだと、そして正しい作法を知らしめたいのだと、まあ勝手に深読み、解釈して、ありがたく思っている次第です。

 ただここで終われば、普通のエッセイ、コラム風になってしまい、無理にも教育的内容と結びつけて終えなければ格好がつかないので、あと少し、話は続けます。もうテーマがテーマだけに、結論なるものは見えているのですが、また読者の方におかれても見えていると推いますが、あえてそこを書き進めます。

 これまで度々、わかることとできることは違うんだ、という趣旨の内容を述べてきました。また生徒がしでかすミスの実態についても、復習しての学習のツメの甘さも指摘してきました。その改善策、対処のしかたも出来うる限り具体的に述べてきました。

 が、実際に、仮になるほどと思われても、なるほどの認識で終われば何の意味もない。誤りをしたあとの生徒のとる行動は、すでに知らず知らずのうちに身についた悪しき(?)習慣に裏打ちされているわけで、その殆どは実は真に改められることは少ない。それゆえ同じミス、単純なミスを延々と繰り返すのだ。わかっていたのに間違ったという声をよく耳にするが、そんなことは愚に
もつかない言い逃れ、単なる弁解に過ぎない。

 別にミスだけの問題とは限らないのだが、生徒の学習風景でやっていることを観るにつけ、まるでこの、蓋が湯呑みにちゃぽんときれいに落ち込むんで、そしてその周りに飛沫を撒き散らしている状態と何ら変わらない。そしてそのことに当人は気付いてすぐ蓋を出すのならわかるんだけど、蓋が入っているのに気付かず平然と飲む生徒もいるんだから堪らない。その割合ですか? 少なくとも現在の公立中学生の7割以上でしょうね。目の前に起こっていることを、自分の目で、その目をまたよくカッポジッて物事を見ろ!と言いたい。

 ほんとうに心底わかっていないから間違うのである。そしてさらに、間違いを防ぐ方法を、真剣に、自分で、研究し努めないから繰り返すのだ。間違いをする原因をつきとめてもそこで終われば、次にまた同じ誤りを繰り返すだけだ。

 間違っても平気ならどうにでもしてくれ、またしかたがないと諦めたくもなるが、間違うのがどうしても嫌なら、正しい基本にいつも立ち返る努力と、それをきちんと身につける習慣を常に怠らないようにすべきだと思うんだけどね。