E-juku1st.Comの中学数・英問題集 中学生の学習のしかた  
        中学生の学習のしかた E-juku1st.Comの中学数・英問題集

中学オリジナル各問題集 ご利用者の声 問題集の価格 中学生の学習のしか お問い合わせ ご注文


  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§186 雑学の重要性についてVOL.2
<もっと内に目を向けて・・・>

 前回では、アメリカ大リーグからイスラム教まで雑学にまつわる知識が、勉強に如何に影響を与えるか、この表現ちょっと大袈裟だね、まあ、陰で支えているものが少なからずあるってことについて書いてみました。

 そしてそのような雑多な知識を、雑多でまだ体系だっていないが故になおのこと、勉強の場面でそれに関連することが出てきとき、興味や感心がより増したり、知識に厚みが生まれたり、理解もさらに深まったりするのだが、最近の中学生はごく一部の生徒を除いて、不思議なほど、また唖然とするぐらいこの前以った雑学的知識を持ち合わせていない、乃至その量が極めて少ないのは、ほんとうに一体、どうしたことだろうかと思う。定期テストと実力テストの大いなる落差は、ここに原因のひとつがあります。

 何が詰め込み教育の弊害を取り除き云々のゆとり教育だ?!と、現実の生徒の力の中身と有り様を視て思う。いまはもっと歪められた「ゆとり教育の弊害」に悩まされている。そもそもこの「詰め込み」も「ゆとり」という言葉も、使い方自体に誤謬とまやかしを含んでいるのであるが。

 従来の詰め込み(?)だって、ほんとうにそれが始まるのは高校からであって、小・中にはそれなりの適正で豊かな内容があったに過ぎない。そしてそれに付随する、または隠れた雑学的知識も、生徒はある程度は持っていた率が高かった。学力低下とともに、実はそれを取り巻く雑学知識もかなり低下していることに、もっと目を向けて考えることをお勧めする。

 日本の15歳(高校1年生)の読解力低下を顕わにした、OECDの学習到達度調査。数学的応用力は1位から6位に後退、「読解力」は8位から14位に急落したとのニュースはまだ耳に新しい。文部科学省は児童生徒の学力低下について、「読解力が低下傾向にあるなど、世界のトップレベルとはいえない」と、まだ半分しか目が覚めていないのか、愚昧に過ぎる表現には呆れ返る。愚かにも、自ら壊すだけ壊しておいて、この言い様はないだろう。

 或る大学関係者はいう。
「勉強の面白さを理解できなければ、知識が頭の中を通過するだけで、分数も分からない大学生を生むことになる。学習指導要領改訂で教科書が薄くなり、子どもの関心を呼び起こす内容が削られてしまったことも一因だ」と。

 確かにそれも一因。指導する時間数の減少、教師の質の低下、読書離れ、テレビ・インターネットなどのマスメディアからもたらされる、勉強を取り巻く環境からの影響、成熟社会には必然的に蔓延する目的意識の希薄性から引き起こされる学習意欲の低下など、直接・間接の原因はさまざまにあるだろう。

 がしかし、そんな鷹の目で観ても、個々人にとっては眼前にある問題はなんら解決に結びつく途には至らないことが多く、蟻の目に立ち返ることにする。あくまで個人としてすべきこと、できることに、いまは目を向けて。

 その場合、どうもね、親のなかには、子供とその勉強の中身を、実はよく観ていなんじゃないかなと時々感じることがある。とりわけそれは、勉強について熱心な親のなかに。 わたしは、子育てがどうだ、その場合親は、斯く斯く然々あるべきだとかの話題は、ガラでもないし口幅ったくてとてもいえないのですが、また勉強に関し無頓着で大まかなのも、それはそれで主義主張があれば、おおいに結構と思っているのですが、逆の場合、つまり親が積極的に関与し、後ろからしっかり支えてあげたり、また隣に一緒にいて同じ方向に向いている姿なら、喧々諤々、あきれ返ったり、頭に湯気が昇ったり、ときによくやったと褒めてあげたりと悲喜こもごも、それはそれでいいと思うのだけど、ただ、子供と乖離してしまって独り先走り、主体性なく目をひく情報や他人の判断に囚われるあまり、子供の内部にある今の力をよく見定めなかったり、或いは問題点を見過ごして、またはそっちのけで、その自助努力をさして積むことなく、すぐにその答えや対応する術を外に求めてしまうのには、どうも感心しないし、結果表面的な学習だけに流され、振り回されているだけの親や生徒が、世間には少なからずいるのには、ただただ閉口する。

 勉強するにあたって、すでに前以って所有している雑学的知識は、十分条件ではないけれど必要条件のかなり大切な要素でしょう。理解する上でも、深く覚えていける上に於いてもね。ちょうど網の目に付着している藻や貝みたいなもので、がさっと掬いとれば、それで引っ掛かる小魚もいるというものです。まあ、勉強ってものは、喩えはもう一つよくないけれど、通常はこの小魚とそ
れよりまだ小さな魚やプランクトンの群れの連続で、大きな魚をそうそう捕まえる機会も状況もないのです。

 その雑学的知識なるものは、何も社会に関するものだけでないでしょう? 
 理科や国語、数学も、身に周りにはいっぱいありますね、よく観察すれば、そして少し考えれば。あまりにいま、勉強を勉強の場と段取りのなかだけで考えようとする、つまり勉強に直接関係する範囲でだけしか目が向いていない、また捉えていない、そんな姿勢とみかたが蔓延し過ぎていはしないか・・・。

 理科は、理科の教科書と問題集だけで勉強するものか? 社会は、社会の教科書と学校の授業だけで学習するものか? 国語は、国語の教科書と国語の先生から、そして漢字は漢字ドリルから、また読解力は、他人の読み取り技術からだけで学んでいけるものか? 数学は、教科書の基本さえしっかり理解、できるようになれば、入試に関連した応用的な問題に対処できる力を身につけることができると果たしていえるのかな?――

 今回は疑問を呈することで、一つの答とさせていただきます。