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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§184 情報を判断する目について
<言葉の使い方が・・・>

 情報過多の社会。あまりにもいま、情報が多過ぎて疲れるから、わたしの場合、あえて遮断する場合が結構ある。情報が少ないのはもちろん困るのだが、異常に多過ぎるのもこれまた、とかく不便なことである。特にインターネットの世界では、溢れるばかりの情報の中で、自分が知りたい情報源に辿りついても、そこにはまた選択と判断に困る、数限りない情報がさらに提供されて存在するのだから、自分の知識や経験に不安のある場合やまったく新しいことを求める場合などは、つい信じすぎたり、振り回されたり、迷って自分の思いとは別の判断をしてしまったり、そんな破目に陥らないとも限らない。

 さて、それとは状況は異なるのだけど、今回、塾の広告について(これも情報があまりにも多く、また刺戟的ですね)検証してみたい。検証とは大袈裟だが、まあ、臍曲がりで素直でないわたしとしては、おいおいちょっと待てよ、それは少しおかしいんではないかい?という一例を、次に書いてみた。合格実績を誇大に宣伝している塾では、合格実績にならない生徒は放置されている、といったネット上に載っているような、過激だけどズバリ本質を突いている、当たり前の事実(?)については触れるつもりはないが。

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 どうする?「テストの間違い」 間違うな! 子育てと受験

 テストの点を見るなり、
「何よ、この悪い点、最低ね」と子供を叱り飛ばしてはいませんか。
 
 子供もとりたくて悪い点をとっているのではない。反省をしているはずだ。
しかし、こんな叱り方をすれば、「もう、どうでもいい」と子供は投げやりに
なってしまわないだろうか。

 大切なのは、二度と同じ問題を間違えないように指導することである。だか
ら、○ゼミ(or塾)では、75点以下の子を授業後残して、「テスト補講」を行
う。間違った所を完全理解させて帰らせる。「できた、わかった」という喜び
を体験させてこそやる気が育つのである。それを導くのが・・・。<中略> 
その具体策は<以下略>。
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 そうだね、悪い点なら叱り飛ばすってことは、感情的に自然なことだし、けれども喉からつい出てしまうところをぐっと呑み込んで、胸のうちに蔵い込んで我慢するのも、これまた大人の常識(?)、ときに必要でもある。そうはいっても、一度ならちゃんとした原因もあるだろうけど、度重なると、これはもうもっと深くて大きな原因が、ちょっとやそっとではほどけそうにないほど絡み合って潜在することになる。しかしここでは、その原因とやらを追究する気はありません。いままで、散々してきましたので(場面が異なれば、また懲りずに触れますが)。

 子供もとりたくて悪い点をとっているのではない、のは当たり前として、次の、反省をしているはずだ、には、うん?・・・待てよ、どうもひっかかる。このフレーズはしっくりこない。おかしいよ。なぜだ?―――

 悪い点というのは、個々人によって違う。平常90点以上取っている生徒なら、たまさか72点なんか取ればえらい悪い点だと顔が青ざめるだろうし、平常が70前後の生徒なら、64点取ったとしてもさほど悪い点だと落ち込むこともあまりないのが現実に近い姿であだろう。まあこれはキャッチフレーズだから、そんなに厳密に拘ることもないのだけど、普通に捉えてこの場合、50点前後としましょうか。

 ではそのような点数を取った生徒が、反省しているはずだと、ストレートにいえるのかな?! 果たしてその半数でも、反省しているのだろうか?! 問題は、その反省の度合いと質なんだけれども――― 
 チラッと一瞬反省するだけなら誰しもできるわけで、またそんな反省の度合いならしないほうがましだといいいたい。なぜなら殆ど、それで完結してしまっているから。肝心の、あとがない! 反省した気持ちで終わり、或いはそれとの狎れ合いでただ時が経つだけではないか。ポーズだけの反省からは、何も生まれやしない。

 実際ほんとに生徒に熱烈に望むのは、この反省なのだけれど、その反省の中身を、ときどき生徒に訊いてみるでしょう。そうすると、ごく一部の生徒(10人に1人もいない程度)を除いて、取った点数なんかにまったく関係なく、上から下まできれいで模範的な答えしか返って来ないんですね。

 帰ってすぐ復習するだの、間違ったところを徹底して覚え直すだの、もう一度基本からやり直すだの、ええ加減にせいと言いたくなるほどその反省の弁は、表面的で深さも感じられない。

 つまり殆ど、ほんとうの意味での反省はしていなんですね。これは、生徒を責めているわけではありません。人間なんて心底懲りなければ、なかなか反省しない動物ですから。ほんとうに考え、反省した内容というものは、実行に移せる具体的なものを必ず含んでいるのであり、それゆえ限定され、ときに偏っているといいますか部分的であるのがむしろ自然だ、とわたしは把えています。

 よって、子供を叱り飛ばしたとしても、その言い方が感情的に過ぎ露骨であっても、反撥はあれ、「もう、どうでもいい」と投げやりになってしまうとすぐ結びつけるのは、あまりに論が単純で短絡的に過ぎる、そして、さもみんなが必ず反省しているといった視点に立つのは、どうも空々しくて馴染めない。

 次なる点、
「大切なのは、二度と同じ問題を間違えないように指導することである」について。

 開いた口が塞がらない。“二度と”同じ問題を間違えないように指導することができる、そのような先生や講師に出遭った経験があるだろうか?! わたしは、ない。これも一見論が通っているように見えて、実はおかしい。二度と同じ問題を間違えないようにするのは、他ならない生徒自身の側にある。

 あくまで教師や講師は、どんなに上手く教えたとしても、また予め間違えないような、また間違いを極力減らすような説明と解き方を教導したとしても、それには当然限界があって、「二度と」とは決していえないのである。口が裂けてもいえないのである。なぜなら、行動の主体は生徒にあるから。「二度と」ではなく、「できる限り」が正しい言葉の使い方だ。

 それではインパクトが当然弱くなるわけだが、お母様たちに訴えかける言葉が強ければ強いほど、ことは正しいわけではない。

 あと1点。
「75点以下の子に対し、間違った所を完全理解させて・・・」

 では、83点の生徒が“完全”理解しているかといえば、94点取った生徒が“完全”理解しているかといえば、必ずしもそうは“完全”にいえない。それは、時間が経ってからわかるものである。完全に理解しているのなら、半年後、1年後に同じ問題が出来てきたとしても、すらすらできるでしょう。また、できねばならないのが、“完全”理解の姿です。しかし常々書いているように、そのような生徒ですら半数も、いや4分の3もできなくなっているのが、現実の限りない姿ではないか。

 ましてや70点や75点の生徒を、その間違った所を“完全”理解させるなんてことは、まやかしに近い言葉であり、ここでは単に、「理解させる」がふさわしいのである。“完全に(近く)”理解するためには、83点や94点の生徒でも、やはり帰って自分で再度理解しなおすこと、そして覚える切ることが基本であり、当然の学び方であろう。けれどもこの当然あるべき勉強の風景が、どうもあまり想像できないのがもどかしい・・・。

 覚えるためには理解することが前提となることが多いが、理解だけでは、非常に脆いものである。そのときは完全に理解したと思ったものが、ときが経つと如何に崩れ去っているか、そんな自分自身の体験を憶いだせば、すぐにもわかることですね。理解は確かに大事であるが、万全のものではない。

 このように、もっともらしく聞こえるキャッチフレーズや文章には、それがまた極めて自然に耳に心地よく(?)入ってくるだけに、厄介なものである。一般に、情報は蒐めれば蒐めるほど正確な判断が下されるかといえば、一概にそうとはいえず、雑多でどうでもいいもの、虚妄に包まれたものが、見事に比例して多く顕われてくるのが現在の有様だから、それを受け取る側の識見と厳
しく選択し判断する目を、できるだけ持つよう心掛けたいものである。