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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§176 勉強以前の問題点についてVOL.2
<意欲することを学ぶ>

 勉強以前の問題点について、の続きです。前回は「筆箱の中身とHBの鉛筆」について書きました。お正月をはさんで3週間も経ちますから、なんだったけなあ、ということにおなりでしょうが、要するに、シャーペンよりはHBの鉛筆のほうがええではないかい?という、まあ、そんな他愛無い内容でした。

 フランスの教育家であり哲学者でもあるアランは次にように言っている。
「重要なのは気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである」

 気分に打ち克つとは、もちろん自己のつい怠惰へ流れる気持ちを訓め、弱いこころを自ら鞭打ち、奮い立たせることですが、勉強をする際には平常心、常にこころを安定させて、いつもと変わらない気持ちで臨むのが理想です。しかし、この一見なんでもない安定した気持ちの維持は案外難しいところがあるだけに、それだけに目に見えぬ努力をしなければなりません。

 成績のよい生徒、また熱心に勉強しようとする生徒は、そういうところがこちらか観て常に安定している。ところが多少成績がよくても気分の波がありそれが顔や態度に出る生徒、クラブ活動や学校の行事などがたまたまハードで疲れきり、姿勢悪く勉強しようとする生徒、そういう姿や態度を自然にまたはつい表に出してしまう生徒はいるものです。

 同情するか、配慮するか、あるいは見て見ぬ振りをするか?!―― 
 問答無用! わたしの場合は、ただ厳しく、そのだれた姿勢と気持ちを抱いている生徒へ叱声を発するだけです。「背骨を入れろっ!」と。背骨を伸ばせっ、ではないんです。

 或る女生徒。実は最初に姉、次に兄と順番に教え、3番目に教えることにな一番下の妹なのですが(このケースはなぜか、うちの塾の場合は多い。兄弟、姉妹の場合はもちろん、3人の場合。また双子もこれまで5組ほど教えてきました。厳しいだけに敬遠される親もいれば、気に入ってくださってすべてのお子様を預けられる場合も)、成績の方はいまひとつ、しかしみんなの人気者で、男女問わず声をよくかけ、まとめ役でもある。

 一番上の姉は3番手の高校(偏差値でいえば、58)に、兄は準トップ校(偏差値64)に行きました。しかしこの末っ子は中1、中2と低迷し、塾の勉強はきっちりするも学校のほうはそっちのけ、お母様との面談では、どういうわけか先生からいろいろ注意されることが多く、このままでは公立高校も難しいと、意外にその評価は低い。通知表を観ても、うーんと首を傾げることがよくありました。その度に、本人とお母様に懇々と説明、アドバイスをしたり、と。

 責任がある。なんとかせねば・・・。いよいよ中3になりました。やる気モードが、目と態度に滲んできました。それまでも英数国の3科目だけなら、実力のほうはさして悪くなかったのですが(といっても、それは、通知表に較べてということで、偏差値的には50を少し超えたところをうろうろと)、それが理科と社会が入ると、もうこれは目が当てられません。とにかく嫌いで、勉強しないのですから。よって肝心の5科目評価となると、45〜47ぐらいになりますか。こちらの学区でいえば、公立ぎりぎりの線。内申は、となると・・・。

 心機一転、猛勉強して、成績がそれまでと打って変って劇的に上がるなんてことは、世のなか広いですからたまのケースとして「個人的」にはあるでしょうが、またその類いの事例が目を惹き持て囃されるわけですが、そこから吸収しえるものは残念ながらなにもなく、また現実に接する生徒の中では決して起こりうるものではない。その反対のケースは数多あるが。

 四苦八苦しつつ、ときに二歩進めば三歩下がるって事態に遭うのも珍しくはないが、まあ、一歩一歩進むしかないのである。そんななか彼女は、5科目の最終偏差値は58まで伸びました。それは、数・英・国が60少しまで、こころ入れ替えて(?)取り組んだ社会が55,6、理科もなんとか平均の50ぐらいまでこぎつけた結果です。内申がそれほどよくもなく、その分本人が頑張って掴んだ実力でカバーしたのですが、高校は地元で人気がある4番手(?)の高校(偏差値でいえば、55ぐらい)に無事進学しました。

 わたしが彼女について感心したのは、その学習の一応の成果(?)と努力以上に、「気分に打ち克つ」姿勢、常に安定した勉強への気持ちの入り方でした。それは彼女の場合、中1の最初からある程度備わっていました。中3になるとそれが、さらに明確になったということです。しかし、それでは、いままでの彼女の理科や社会の勉強はどうだったのか、ちょっと辻褄が合っていない点もあるのではないか、となりますが、辻褄が合った、論理的できれいに纏まっている内容や文章には、却って薄さと虚妄を感じることがしばしばあり、個人的に辟易としていますから、まあこの場合はお宥し願えれば、と。

 彼女の持てる気象が親譲りで良いためか、あの先生はえらく厳しいからおとなしくしろと姉や兄から吹き込まれていたせいか、それともわたしとの相性がよかったのか、まあ、そんなことはどうでもいいことですが、わたしが教える英語と数学の授業では、アランのいう「気分に打ちかつことであり、意欲することを学ぶことである」はささやかだけど、見事に具現化していました。彼女は将来、いいお嫁さんになるだろうなあ、と勝手に意っている次第。

 さあ、やるぞという意気込みは、その対象がなんであれ、ものの初めとして大切ですが、人は一般に、時間の経過とともにやがてそれは沈静化し、往々にして忘れていくものですが、そのあとの煩雑な作業、絶えず出くわす障害物を乗り越えるためには、この「気分に打ち克つこと」をつねに自分に課さなければならない。

 勉強も同様である。そして、願わくば、「意欲することを学ぶことである」を知ってもらいたい。意欲がある、のではない。そんなものはじっと待っていたって容易にはやってこないし、たとえその感情が起こっても寝てしまえば、そして次に目覚めたときには、どこかに跡形もなく霧散していることはよくある。そうではなく、意欲することを学ぶのである。これは自らが、絶えず努力して作り出すものである。