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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§173 間違いは直せるのか、自分で?!・・・
<生徒自身の気象(気性)にも拠る>
 
「間違いは直せるのか、自分で?!・・・」
 もう永遠のテーマですね。

 これは自慢になるのかならないのか(ならないに決まっているが)、わたしはこの3年の間にスピード違反で4回捕まっている。すべてパトカーによる検挙である。後部座席に無理やり誘導され座らされて、キップを切る破目に陥る。

 最初の2回は夜に、後ろから突然けたたましいサイレン鳴らされて補導となった。白黒ツートンの屋根に赤色灯ランプをつけた、わたしはもう誰がなんといっても、どこからみても正々堂々としたパトカーであるからね、というやつである。あとの2回は午前中で、なんと覆面パトのお世話になった。

 4回ともすべて背後からの闇討ちに遇った状態(こういのは前方からはあまりないものだけど)、まるで袈裟懸けに斬られたかのような気分に陥るが、「はい、そこのバイク、スピードを落として左に寄りなさい」なんて、マイクを通して大きな声で白々しく言われると、もう、げんなりするよ。

 まったく覆面パトというやつは、普通車そのものだから見わけることなんかできるはずもなく、こちらの用心の外にある。自分の身分を明かさず唐突にサイレンを鳴らし、つつましく賢良な市民(?)に食って掛かるんだから、性質が悪いというか、卑怯この上ないやり方だ。(まったく、反省の色なし?!)

 いつもなぜか車の中では警官と話が弾み(?)、息子がどうした娘がどうした、塾に行ってるんだけど全然成績が上がらないで困っている、どうしたらいいか?なんて相談を受けたり、和気藹々のもとにしばし過ごすことになるんだけど、結果は無罪放免とはならず、右手人指しに朱肉か黒いインクをつけさせられて罰金を課せられることになる。

 今回の覆面パトにつかまったときはさすがに頭に血が上り、「何なんだ! 俺に朝から用事でもあるのか?!」というけわしい感情が込み上げてきた。ひとが安全運転よろしく気をつけて走っているのに、ただスピードが少し出ていたというだけで、あのいやなサイレンを後ろに聞かされると、一瞬空間は、前にはなくなり、わたしとその背後の世界だけになってしまう。それはさながら
投網をバサッと思い切り後ろから投げられてとっ捕まった魚の状態といえる。見事にひっかかっている自分が見苦しいやら、情けないやら。同じ失敗を何度繰り返すのか?! 

 避けて通ればいいんだが、また便利とはいえない国道なのだけど、それ以外の道は何かと不自由な点があるのでついつい通ってしまう170号線(大阪外環状線)は、どこでもよくある交通量の多い道路で、普通車はもちろんバスや大型トラックが頻々と行き交うものだから、これでも最新の注意を払ってバイクを運転している。車の運転は30年以上だし、技術も他者への配慮も運転マナーも自分で言うのも変だがきわめていいほうで、それは超一流の域に達している(?と、いい加減思い定めている)。わたしのようなドライバーばかりなら、いまの日本の交通事故は10分の1以下に減るだろう、そう、こころのなかでは嘯いている。

 まあしかしこの矜持は、免許切り替えの講習会(なぜか常に参加している。当たり前だ、違反をしているのだから)などでの適正テストでは、よくないドライバーに当て嵌まるが。

 もう憮然とした態度で、頭から湯気を出し、恚りを撒き放ち、険しい感情が顔に滲むのを抑えることもしないで、わたしは覆面パトの後部座席に座った。
「おたくね、スピードが48キロ出てましたね。ちょっと免許証みせてもらえるかな?」と、いつものよく聞かされる(?)科白を耳にする。

「原付はね、法律で30キロ制限であるのを、・・・」と、決まりきったことを二人の警官のうち上司のほうが言うので、わたしも、頭に血が上っているぶん、論理もへたれ糞もない、ただただ感情的に語気荒く、「いいや、そうは言うけどね、わたしも道の端っこ通って、車にはほんと随分注意しているし、流れに沿って、・・・」と、むなしい抵抗を心のなかで感じつつも、いわねば気が済まない。

 まあ、このあとのやり取りはちょっと続くのだけど、どこからか話しの内容と調子が変わってしまって、警官曰く、
「わたしも若いときは悪いこともしたしね」とか、「同僚が100ccのバイクを中古で見つけてきたんだけど、あんたも買えば」とかいろいろアドバイスをくれることになり、またわたしがあれこれ質問するものだから、「あそこの自動車教習所の○○さんにわたし名をいえば、ちょっとは便宜を図ってくれる」とか、親切に、また長々教えてくれることになった。パトカーを降りたあとは今回もまた、しっかり違反キップを持っていたけれど。

 20世紀後半もっとも大きい影響力を与えた哲学者のひとり(なそうな。「天声人語」の記事にによると)、フランスの哲学者デリダの言葉の一部というか、主張の因は、「すべでは誤解の上にある。正統な解釈、確固とした真実などない」という解釈から、彼は始まるらしい。

 ほんとにね、教育関係にまつわる諸事万端、正統な解釈、確固とした真実などないんですよ。わたしは、そう思っている。いまはこの深遠な話題は避けるとして、いやいや、避けるしか能力はないからで、もっと瑣末なことだけに捉われていうけれど、「すべでは誤解の上にある」は、この場合のわたしの行いと考え方にも大いに当て嵌まってしまう。

 わたしの感覚では、スピードを出すというのは、一般道では最低60キロ以上を超えたあたりから始まる。凍結している道路では30キロでも危険なことはあるし、状況によって変わるのはもちろんである。その感覚をバイクを運転していても引き摺っているので、30キロ走行は端から頭にない。法律で決められたこの30キロ以下の走行が安全運転かといえば、現実は決してそうでもなく、さまざまに注意すべきこと、危険から予め避ける術、自分の身は自分で守らねばならない走法はいくらでもあるのだ。

 がしかし、この主張とは裏腹に、わたしは根本的に誤解をしていたようだ。わたしが乗っているのはバイクではなく、原付バイクなんだ、ということに。この当然の事実を長年、わたしはあほなことに認識が足りなかった。中古のそれこそおんぼろの代物で、軽快に走ろうものならすぐ後ろを走る車が傍迷惑この上ない不完全燃焼の白い煙をマフラーから排く始末で、せいぜい出そうとしても52,3キロぐらいしかスピードは出ない原付なのだけれども、世間は、いや、警察は、いや、覆面パトにとってそれは、うってつけのおいしい獲物なのだろう。50キロで走りたければ、100ccのバイクかスクーターに乗らねば、いつまでも後ろから突然投網を投げられることに、漸く今回わかった。うーん、やっぱり一本足らん(いまに始まったことではありませんが)。

 前振りが長く、いつになったら「間違いは直せるのか、自分で?!・・・」という、いつもの教育的話題に関連するのか、飽き飽きしながらお読みいただいた読者の方には甚だ申し訳ありませんが、どうやら今回は、肝心の中身が伴わないような雲行きであります。

 間違いを直すには受けて側の柔軟な思考と素早い対応、いや、もっと直截にいえば素直な性格が必要なのことはいうまでもありません。えっ、そんなことがいえた道理か、お前自身が相当曲がっているぞ、ですって? はい、そのとおりです。しかし、高校時代から曲がり始めたようにも思いますが、小中時代は素直そのものでした(なーんか、変ですけどね、自分の性格をいうのは)。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、ここでいうところの「間違いを直す」とは、生徒が犯す日常的なかつ恒常的なミスを指しているのではなくて、その間違いをするところの根本にある、生徒の気象の部分に関係しています。単純にいって、自分にない、また、まだ気づいていない「いいところ」は取り入れる、逆に「どうでもいいこと」は取り入れても入れなくても自由である、そういう心象が勉強する上でもともとあるのかないのか、のことを指しています。

 それがない生徒は間違いを、結局は「自分で容易には直せない」でしょう。個々の間違いだけに目を囚われて、それを取りまとめる大本の発信源の間違いに気づくことはないのですから。不思議なのですが、これを持ち合わせていない生徒はかなりいる。

 まさに教えるとは、生徒のこれとの格闘である。それゆえ、生徒自身に素直な気象を持っている者は、最初の偏差値が45,6であろうと最終には67前後まで伸ばしてきたケースはいくらでもあるし、逆に、最初は52前後で最終も57,8といくらも伸ばすことができなかった生徒もなかにいる。総じて10ぐらいは最低伸ばしてきたつもりでいるが、それには教え方を初め、手作りの問題集の
作成とその具体的実践も大きな要因であるけれども、個々の間違いを指摘し、逐一直してきた他に、勉強を進めていく上で「いいこと」を絶えず教えてきたことにも拠る。
 
 しかし、「いいこと」というものは、大体がつらく辛抱が要るもので、そこには要領やコツなんてものは含まれていない。また継続しなければ話しにならないわけで、短期に楽して力を上げる方策なんてものもない。生徒自身のなかにどれだけ問題意識があるか、また「いいこと」を苦なく実行しえるか、それを容れる気象にかかっている。伸びる生徒の大きな要因のひとつは、ここにある。大本の発信源の間違いやまだ不備な部分に気づき、それを匡し、直していけるのは他人の力ではない、本人しかない。