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§130 learn と study
<learn の学習>
study は「勉強する」で、learn は「学ぶ」はみんな知っている。各々の第一義である。study
には研究するという意味もあるし、名詞としては勉強、研究のほかに書斎(勉強部屋)、研究論文なんて意味も高校では習う(or自分で学習する)はずだ。たとえば、
He was reading in his study.(彼は書斎で読書をしていた)
なんて、辞書にも載っている。
一方learn は、正確には知識や技術を学んで覚える、学んで身につける、という意味で、習得する、〜ができるようになる、の訳もありますね。 これは辞書に載っていることを書いているだけだが、つまり、study
は学科としてあるものを勉強したことに対し、その結果を問わない。それに対しlearn
は学んだ結果を問い、その内容が身についた、覚えた、という意味を表す。
We study English at school.(我々は学校で英語を習っている)
<英語の授業を受けている。しかしその結果は不明>
We learn English at school.(我々は学校で英語を習っている)
<授業を受ける結果として英語を覚える>
が、この例文もわたしにしてみれば、多少無理があるように思える。学校だけでlearn
にもっていける優秀な生徒は、きわめて稀だからである。またその習う問題レベルにも、かなり大きく影響される。普通、学校ではstudy
の状態にしか過ぎず、また塾でも然りだろう。それをlearn
にもっていくのが、家での自分の学習、復習においてであろう。
「だれでも聞きながら学ぶのではない。学ぶのは読みながらである」
これはフランスの有名な哲学者で思想家でもあるアランの言葉。その『教育論』の中の一部。また、次のような文章もある。
「生徒たちは聞きながら学ぶという習慣を身につけてしまっている。少なくとも彼らは、それで学んでいるのだと思いこんでいる。それに彼らの両親たちも同様で、言葉につまるようなこともなく一時間でも話しつづけることのできるきわめて博識な人の話を二度か三度聞くと、もう彼らは自分の教養のためにたいしたことをしたと思いこむのである」
耳の痛い言葉であるが、真実をついている。アランの『教育論』のすごさはこんなものではないが、それはまた後日のこととして、「だれでも聞きながら学ぶのではない。学ぶのは読みながらである」について少し、言及してみたい。
もちろん学ぶ場面は学校の狭い範囲だけではなくさまざまな場面や状況下、年齢でもあり、限定することはできないのであるが、ここでの主張はあくまで初等教育から中・高等教育の、教える教えられる関係に基づいて述べているわけで、その場合「だれでも聞きながら学ぶのではない。学ぶのは読みながらである」という言葉の意味するところは、勉強する姿勢の本質を見事に顕わしていると思う。
だれでも聞きながら学んでいるのではなく、それは単にまだstudy
しているに過ぎないということ。この認識が、ほしい。しかし多くの生徒と父母は、また教師ですら、それを誤って理解していることが多い。すくなくともわたしにはそう映る。
・中学生にもなって、勉強のしかたがわからないという理由で塾に行かせる。
・学校の授業だけでは心許ないという理由で、塾で余分な(?)勉強をさせる。
・出来がまったくよくないから少しでも成績を上げるためにと塾に行かせる。
・志望の高校に何としても合格してもらうためにと、学習内容ばかりでなくそのノウハウや受験技 術を身につけさせるために塾に行かせる。
まだまだその理由はあるだろうが、これらをいけないといっているのではない。第一にわたしは、その逆の立場の当事者でもある。大切なことは、そこで何を学んでいるかということ。いや、実は、その状態では何もまだ「学んではいない」のだ。学ぶ材料をstudy
しているだけである。それをlearn にもっていくことこそ、ほんとうの勉強の姿であろう。それをするのは、誰でもない、自分自身であろう。
だから、塾に通って1年にもなるのに成績が一向に上がらないといった父母の声を耳にするにつけ、それは当然であり、必然の結果だと思う。study
しているだけで、決してlearn をしていないのは容易に想像できるから。また一般の生徒に措いても、その殆どは、程度の差こそあれ同様だ。わたしを取り巻く環境の中の生徒の98%以上は、豊富な学習量とうるさく厳しい指導(?)に依って、study
は真剣にするが、learn の状態にもっていくのは至難の業なのだから。
勉強をすることはstudy であると思い、learn
の意味が、どうしてもまたなんとしてもわからないようだ。3年かかってもこの意味がわからない者にはわからないのだ。そう、思う。できることならそんな意味なんか、人から教わる前に、learn
なんて単語を習う前に、小学校で6年も学習した経験があるのだから、中学生にもなれば自ずから体験的直感的に知っておくべきことだろう。
その意味で逆の、日曜特訓とか集中特訓とかで1日8時間、いや朝から晩まで10時間以上にも及ぶ塾漬けの学習をする生徒や教える側の教師の姿には、痛く感心するところはあるものの、わたしとしてはどちらの立場にも立ちたくない。もし生徒の立場なら窮屈でしかたなく、飛んで逃げるだろうし、教える立場ならそれだけの忍耐力も集中力もない。
ただ物事の視座には2つあって、もう一方の目で観ると、およそそれはstudy
の連続であり、束の間の学力向上には力を発揮するかもしれないが、ほんとうの学力形成、自ら学ぶ力の収得には程遠い姿である、とも本能的に感じる。なぜなら、「学ぶのは読みながらである」というアランの言葉が、わが心の声と共鳴してやまないからである。
「生徒たちは聞きながら学ぶという習慣を身につけてしまっている。少なくとも彼らは、それで学んでいるのだと思いこんでいる。」
このアランの続く警句にも、即座に深く頷いてしまうのは職業柄だろうか。習慣とその中に埋没した考えはなかなか矯正しづらいものがあるが、study
を学んでいると勘違い、思い込みをできることなら排除して、「学ぶのは読みながらである」という意味をほんとうに理解して、learn
の学習へと質を高めた勉強方法を、是非築いてもらいたいと祈う。
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