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§118 教える、ということについて
<基礎を教えることは難しい>
今回、教えるということに対して、その断面について触れたいと思っています。なぜ断面かというと、全体だとテーマが大き過ぎるということと(当たり前か――)、またそこまで論じる気力と卓見をいま、持ち合わせていない(いやいや、そんなものは永久にないが)という2点からです。
教育にまつわる断面は、金太郎飴を切るのとは違い、その切口をどこにするかで大きく様相が異なるものですが、ここではいつもの如く公立中学生の大多数に当て嵌まるケースを観るとして。
さて、教えるとは、一体どこまで教えればいいのかな?なんて、そんな悠長で高踏(?)な、まるで先生になりたての素朴な疑問、悩みなんぞ言ってる暇はとんとなく、教えても教えても、なにがなんでも教えきっても、それを十分には吸収してくれない頑強な生徒を前にして、あるいは吸収してもほんとうには消化し切れていない生徒があまりにも多いのに、はたまた吸収したはずの知識が、時の経過とともにいとも簡単に、それこそ下手すれば跡形もなくきれいさっぱり忘れちゃうその暗記力に、ただただ恐れ入るというか閉口してしまう。
しかし、閉口してしまうだけの感慨ですむのなら、ものごとは簡単、ぐんと気が楽なのだが、それでは責任を果たしたことには到底ならず、なんとかせねばならないのがつらいところ。積んでは崩れ、積んでは崩れ、その崩れを自分で何とかしないものだから(ほんとにこの点がいまの生徒の一番欠けているところ)、まったく自分の問題であるのに他人事のように傍観して動かない生徒が驚くほど多いものだから、こちらが躍起になって「補修」しなければならないことになる。
つまりこの状況は、過保護に過ぎるわけです。「補修」と書きましたが、まさにその学習の実態は補修で、破れた箇所を取り繕い、穴が開いた部分を埋める作業の連続といっていい。学習は前に進むもの、新たな知識を獲得していくものだと思うのですが、前に進むためには過去のことをすべてとはいいませんが、基本なるものだけは最低わかっていなければなりませんね。なぜなら、そのことを踏まえて新たな勉強を進めていくのですから。
ところが、いまの勉強を進めるにあたり、中1では小学時に最低習得しておくべき事柄がわかっていない、身についていないものだから、その説明と解説に大いに時間を喰われることになる。一部の生徒がわかっていないのなら納得が行くのですが、事実は、一部の生徒だけがわかっているに過ぎないから、驚きを超えて言葉を失います。
具体的にどういうものか?ですって。それはもう、うんざりするくらいありますね。たとえば英語なら、主語、がわかっていない、判断できない。述語もわかっていない。動詞とはどういうものかも知らない生徒が大勢いる。せめて名詞、動詞、形容詞ぐらいの区別は知っていて欲しいといいますか、当然のまた最低限の知識だと思うのですが。何も副詞や助詞の区別を問うているのではないのですから。
生徒はちんぷんかんぷんなことを平気でどんどん、それこそ呆れるぐらい繰り返しいいます。一度や二度、基本からコンコンと説明しても直るものではない。わかっても直るものではない。それはもう不思議なくらい直りません。ほんとうには自分の頭でわかっていないからです。それが何でもない基本であればあるほど、繰り返し飽きるほど、説明と質問をしなければなりません。そして、やっとできる。できるようになる、こちらの精魂尽き果てた頃に。
しかし、これはおかしい。ここまでして勉強は教えるものではない。
「基礎を教えることは難しい。応用を教えることはそれに較べ、なんとやさしいことか――
」
この感懐は最近、とみに感じる。本来は、逆なんですがね。
教わる側の生徒にとっても、また一般のお母様たちが抱いているイメージでも、「基礎はわかるんだけど、どうも応用になるといまいち理解できない、ややこしい、どう解いたらいいのかさっぱりわからない・・・」という捉え方をされている筈です。しかし、事実は違う。基礎ができないのです。
そして、小学時に基礎ができていないのです。基礎をしっかり教えてくれる、また生徒のほんとうの力を認識できている小学校の先生は、これまた驚くほど少ないと言わざるを得ません。まるで、生徒がわかったという状態ができていると錯覚している、認識と判断の甘い先生が多すぎるのでしょう。
基礎ができていない生徒が、そして基礎ができない生徒が、中学生になり急に塾に行って余分に(?)勉強しだしたからといって、成績がぐんぐん上がる道理がない。進学塾に1年も2年も通って勉強したのに、結局成績はちっとも上がらなかった、という事例は枚挙に暇がない話ですね。根本に目を向けていないからです。
さてもう一つ、生徒のおかしい実態に触れておきます。
それは、ポイントを掴む力のないことです。これはいまの勉強、新しく学習した内容を理解、押さえる力です。これが10人中なんと9人はないか、もしくは足りない。説明をすればその場で理解はしていきますが、押さえる力、つまりポイントを把握する力がどうにも不足、欠落しているのです。
要するに何なんだ、何がわかっておればいいんだ、そして何を強く覚え込むんだ、というポイントの掴み方がどうも弱いというかすんなりできない。 説明をする。もちろんさらっと説明をするわけではない。詳しく解説、また予めミスをする箇所を指摘、してはいけない杜撰なやり方を戒め、そして「ポイント」を繰り返し言う。その演習をする。演習に入ると途端に間違う生徒もいるが、まあそれを直し、なんとか全員ができたとする。
では、この問題を解いたわけだけど、何が一体ポイントなんだ?と問えば、その答えはなかなか返ってこない。確認の意味で気楽に訊いているのだけど、事態は、気楽ではないことが多い。黙って答えることができない生徒、だらだら見当違いなことを言う生徒、ポイントを掠めながら正確に指摘できない生徒などなど、これが平均的なまた定期テストでも80点以上は取る生徒の大半の現実ですから、言葉を失う。
ポイントはすでに言っているのです。言っているからできているのです。しかし、訊いてみると、そのポイントが言葉に出てこない。だからまた、繰り返し語調を荒げつつ説明することになる。そのときになってやっと、生徒はわかった顔つきをする。ああ、そうなのか、と。これは、おかしい。非常におかしい、と思えます。このことは学ぶ姿勢と能力の本質にかかわっていますね。
一般に、ものごとを力の量に換算し、そこに質の良否をもち込むと、完全に近い姿が見える。ちょっと抽象的な言い回しになりましたが、勉強も同様です。いま、生徒の本質に面と向かってそら恐ろしく感じることは、何度もこれは触れていますが、国語力の基盤のなさです。それは痛切に英語に響いていますし、数学にもに響いています。
数・英の基礎ができない原因、ポイントを把握する力が欠落している原因、人の話や教科書の大切な要点を掴む力が足りない原因、思っていることを適切な表現に置き換えることができない原因など、またさらに学ぶ姿勢と能力の本質に関わるさまざまな事柄など、それらの殆どは国語力の基盤のなさに起因すること明々白白ですね。
いまの少なくとも二倍は、国語に関するさまざまな勉強をしてください。そして、あらゆる本をどしどし読んでください。
この夏読んで面白い、あるいはうーんと唸った本。
『無人島に生きる十六人』(新潮文庫 須川邦彦著)<400円>
明治31年、帆船龍睡丸に乗った16人がパール・エンド・ハ−ミーズ礁の、ある無人島に漂着した。さて、それからが・・・。冒険実話。
『心は孤独な数学者』 (新潮文庫 藤原正彦著)<438円>
天才数学者ニュートン、ハミルトン、ラマヌジャンの3人を扱った評伝紀行。
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