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§98 ゆとり教育について
<意識して自分で泳ぐ>
先日、読売新聞の「政治を問う」(識者インタビュー)の欄で、お茶の水女子大学教授である藤原正彦氏の意見が載っていました。既にお読みになった方もおられるかと思いますが、甚く同感しましたので、ここにその一部ですが、その内容に触れたいと思います。
藤原正彦氏は数学者ですが、氏の父はご存知の方もいらっしゃると存じますが、かの『アラスカ物語』や『八甲田山死の彷徨』、また『孤高の人』を著した作家、新田次郎であります。
わたしの枕もとには、宮城谷昌光の著作数十冊とまだ買って読まない本が何冊か乱雑に積んであるのですが、maybe
地震があれば、がさがさと崩れ落ちてわたしの寝込んでいる顔を痛打する予定に(?)なっているのですが、その中に、埃を少し被って新田次郎の『孤高の人(上・下)』がまだ読まれないで積んであります。
藤原正彦氏の著作も過去に『若き数学者のアメリカ』、『数学者の休憩時間』、『遥かなりケンブリッジ』の、3冊だけですが読んでいて、わりあい親近感を抱いている人でもあり、新聞嫌いなわたしもつい読み込んでしまいました。
大きな見出しは、「経済、教育――米国流を追う愚」で、ばさばさ歯切れよく、現代日本の政治と経済を痛罵して気持ちがいい。米国は、軍事・外交上の盟友であるが、経済上の“敵”であることを忘れている、と。米国の意見を取り入れ過ぎたもう一つが教育だ、とも。
「戦後、占領軍は、日本が二度と米国に刃向かわないように日本の教育を変えた。その結果、教養をたっぷり身につけ、大局観があり、祖国愛を持つ真のエリートが育たなくなった。<略>日本は戦後教育でも、学力だけは維持し、経済発展の源となったが、その教育レベルまでも、この十年間で一気に崩れた」
その理由として挙げているのに、「日本の教育関係者には米国留学の経験者が多く、帰国後、「自主性、独創性、創造性を養う」という米国式のゆとり教育を導入したためだ」
と。
「ゆとり教育は米国で八十年代に失敗に終わった教育理論だ。米国は九十年代以降はかつての日本の「読み、書き、そろばん」のような基礎、基本を徹底する教育を取り入れ、学力向上に成功している」
とも。
ああ、まったくあべこべではないか。いいのをわざわざ捨てて、他国の時代遅れの、それも失敗した教育理論を愚かにも模倣し、追随しようとは。
また、次のようにも述べている。
「日本再生の根本は初等教育の国語にある。小学四年でみると、1918年(大正7年)には国語が週14時間あった。1940年(昭和15年)が12時間。ところが、現在は実質3、4時間だ。まず初等教育の国語の時間を大幅に増やすこと。そして、読書に親しませることだ。後は算数の九九などの基礎をたたき込めばいい。基礎がしっかりしていれば、必ず独創性や創造性も身についてくる」
と。
「国語は、日本人としての知的活動の基礎だ。日本の文学作品や詩歌を読み、日本語の美しいリズムや人々の情感、自然への繊細な感受性に触れ、感動することなしに情緒や教養は身につかない。論理的思考も言語を通じて育つ」
と。
まったくもって、同感。わたしが過ごした昭和30年代の小学国語の時間は、週に何回あったのか、いまでは憶いだすことができないけど、少なくとも今の倍はあったのだろう。それでも、基礎の漢字の読み書き、文章の音読、語彙、文法などの最低の学習は身にはついたが、読解力、表現力などに措いては、小学時にはまだ未熟そのものであったように思う。その国語の授業から逸脱したところで、つまり、好きな作家や小説などをおもむくまま読み耽るうちに次第に、自然に、体内に入ってきたのだ。
でも、読解力なるものは、小学5、6年のうちは頭と体内に蓄積しているだけで、それがすぐに国語のテストや成績に反映し、役立ったとも思えず、醗酵段階の過程。引き続く中学の3年間の国語と乱読のなかで、まあ何とか初歩的な完成をみたように、いまでは考える。
ほんとうに表現力、思考力、論理的な考え方が形成され出したのは、高校になったからだ。自分のことを語るのは面映いが、そんなものである。もちろん、それもたいしたものではなく、未熟と模倣、若者特有の独善を含んでいたが。
新学力観では、小中学生に、詰め込み教育ではない、また得られない(?)、表現力、思考力、日常の中からものごとを観察する力などを要求し、高校入試ではその傾向に沿った問題が少なからず出題されるようになってきた。しかし、文部科学省などの上からの思惑、施策(確たる理念のない模倣追随、朝令暮改政策なんでしょうかねえ、うんざりしますね)とは滑稽なほど相反して、ここ10年以上すでに生徒の学力低下は続いていたが、ご承知の通りこの度の、3割減
のかすかすの学習内容と「総合学習の時間」というわけのわからない「ゆとり教育」の名のもとに、その駄目押しはさらに決定したといってよい。
そもそも国語の時間が週に、3、4時間程度で、いったい何が身につくというのであろうか?! 大正時代の週14時間にはいまさらながら驚くやら、うーむ、と感心するやらですが、そこまでいかなくても日本語教育を支える国語が、確実に以前と比べ半分以下の時間数になった現状では、もはや期待できるものは何もない。
数段落ちた言語能力、日本文を満足に読み取れない今の大多数の生徒に対し、「表現力」、「思考力」という言葉を当て嵌めること自体、いったい何を考えているのか気が知れない。いわんやその問題を考えさすのは、眩暈を感じるほど苦労を要するし、気の遠くなる作業だ、それも往往にして不毛な結果にいたることが予測できてしまう、と感じているのはわたしだけではなかろう。
直接現場で指導してきて、中学生のその国語力の弱さ、というより「貧弱さ」には、相当悩まされるわけで、教える言葉そのものが伝達不能になるときがあるくらい、なんでもない普通の学習の中でもかなりの比重で深刻な問題になってきているのである。つまり、学ぶ土台が、基礎が、初等教育の段階で培われていない、まったく養成されていないのだ。
極論を言えば、小学校では、国語と算数だけをやってといてくれ、といいたくなる。国語でも、教科書の内容にとどまらず、音読の時間、作文の時間、辞書を引いて慣用句やことわざを調べる時間、当然漢字の読み書きの徹底した訓練の時間、百人一首や短歌、詩を暗誦する時間など、一杯必要ではないか。
算数も同様。計算はできるが、文章題になるとさっぱり、では困るわけです。しかし、その計算もですが、実際に教えてみると、なんとも頼りないのが現状で、スピードはいい加減うんざりするくらい遅いし、乗除先行のルールも満足に知らない生徒は半数にのぼるし、101−89=12などの引き算は時間がかかるしおまけにミスはするし、5÷100=0.05などの割算も、暗算で瞬間にはできず、下手すると割算の式をちょこちょこ書いて1分くらいかかって計算するし、もうなんでこんなこと、そつなく安易にできないんだ、と慨嘆すること数多あるわけです。
ですから、「算数の九九などの基礎をたたき込めばいい」というのは真実で、たかだか計算されど計算で、ほんと、計算を自由自在に操れる生徒はごく僅か、大半は、計算にすら弄ばれているという始末、嘆かわしいことこの上ない現状です。その計算の時間、割合などの基礎的な文章題の時間、図形の時間、そしてできれば昔は少しやっていた、「つるかめ算・流水算」など古典的文章題をうんうん唸って解く時間など、これこそ思考力を磨く、解けないまでも解こうとする姿勢と粘りを訓練する機会になるわけですが、そのような総合的な算数のプログラムと演習の時間が、実際小学時にかなり必要で経験していかねばならないのではないか、と思います。
その算・国の時間以外、体育、音楽、美術に振りわければよい。理科と社会には悪いが。だってね、理科と社会は小学校で学んできたのか、果たして信用できない、知識の片鱗もない生徒が、恐ろしく大勢いますものね。これはまあ本音ではありませんが、逆にほんとうは理科、社会をとっても大切にして欲しいのですが、それほど貧困な算数・国語の力が、いま初等教育の場だけでなく、そのしわ寄せが怒涛の如く中学レベルにも押し寄せ蔓延して、現場は混乱、喘いでいる状態というわけです。
英語学習、インターネット学習、総合学習の時間など、基本を疎かにして、日本語も自由に操れず、かつ文章の読解も漢字の読み書きも満足にできず、どうしてそれらに時間を割く余裕があるのだろうか? まったくもって理解不能、愚かにも限度がある!といいたい。
藤原正彦氏の唱える、
「まず初等教育の国語の時間を大幅に増やすこと。そして、読書に親しませることだ。後は算数の九九などの基礎をたたき込めばいい。基礎がしっかりしていれば、必ず独創性や創造性も身についてくる」 の論には、大いに賛同、納得いくもので、ここからしか学力低下を食い止める、また真の豊かな教育向上の糸口は見つからない、と強く思います。
そうはいっても現実のいま、流れは完全に誤った方向に逆行しているわけで、その渦中にいるものはどうすればいいんだというと、無作為ではその流れに押し流されるだけですから、意識して自分で泳ぐか、違う流れに乗るしかないでしょう。いや、もう一つ選択肢がありますね。いいんだ、これで、とそのままのんびり流れていく方法です。
違う流れとは、ずばり猛勉強の末、中高一貫校に進むことを指していますが、まあそれも、能力があれば、大きな魅力と有効な手段であると思いますが、わたしなんぞは育った環境、時代が違うので、いまと比較して一概にこうすれば、とはいいにくいわけですが、それ以上に、小学校なんぞで猛勉強するのは真っ平ご免、また他人の指導を受けて勉強する、させられるのも性分に合わないわけで、のんびりしかし「意識して自分で泳ぐ」道を進みますね。
それがどういうものかは、すでに上に、ある程度記述してあるつもりですので、反復は避けます。
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