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§96 質問と理解する権利について
<知る無きに如かず>
ホームページ上のBBS やメールで「ご質問」を受けますね。基本的には、その殆どの質問にお答えしているつもりでいます。また今後も、根が愚昧というか鈍重なほうですが、わかる範囲でなら、できるだけお応えしてゆく心積もりでいることにはかわりありませんが、困ったことも当然あるんですね。
だいたいが、ホームページの性質上、「勉強」に纏わるものが殆どで、
「わが子は公立中学に通っていますが、成績面では学年トップ、しかし、今のままでは不安で、さらに学力を上げる方法はないでしょうか」
なんて、相談はまずないわけで、また、
「本人は勉強が好きなのか、親がもうやめて寝たらといっても、気がすむまでします。どちらかというと、がり勉タイプなんですが、このままでいいのでしょうか」
なんて、ありがたい(?)質問も殆どありえない。
その逆は、それこそ多種多様、山のようにある、といえば少々大袈裟か。
問題なのは、具体性に欠ける場合と、答えようがない、もし答えようとすれば延々と基本から話さないとわかってもらえないのではないか、という質問です。
お悩みなのはわかるのですが、またどうしたらよいか、その方法をお訊ねになるのはごもっともなのですが、さて、受け取る側のこちらとしても、その文面に具体的な詳細がない場合(当事者は説明されているつもりでしょうが)、どう判断してよいのか、どこまで類推すればいいのか、またどのあたりまで伝えればいいのか、うーむ、と悩むケースがでてきます。
大体が、突然のことで、こちらとしては相手がまったく見えないわけです。森を漠然と見ても、漠然としたことしかいえないわけで、特にそのお悩みが深刻な場合(まあ、大抵がそうでしょうが)、森の中の樹木一本の姿が見えるほうが、より的確な助言がしやすいし、また具体的に述べやすいのは当然です。
吉本隆明の著書の中に、鶴見俊輔の言葉として、「誤解する権利」を取りあげています。すとんと、こころの襞に刻まれたので、ここに一部抜粋してみます。
「人間と人間のあいだには誤解する権利がある。そういうものなんだと考えていたほうが、過ごしやすいかもしれないですね」
「誤解する権利」、ああ、なんと気持ちが救われる言葉でしょうか。一般には、誤解しないように、誤解しないようにと気をつけるものですが、また正しく理解するようにと努めるものですが、ふと考えれば、ものごとに対しては勿論のこと、親兄弟、夫婦、子供から始まって、仕事関係の人々から近所の方、わたしの場合なんかは生徒に対しても、誤解せず出来る限り相手を理解しているつもりでいても、「誤解しない義務」に縛られて、その実、結構誤解しているのだろうなあ、と想う。
だから反省する、という気も特別起こりませんが、誤解してもいいんだ、それが自然なんだ、もっと言えば、その権利もあるんだ、といわれれば、何かしらほっとするいいますか、安心しますね。硬質な言葉だけど、柔らかいのに棘を含んでいる言葉よりか、はるかに癒しの響きがあるかなあ。
また、次のような文句もありました。
「人間には、他人の仕事を理解しないという権利がある。<中略>理解されようなんてもってのほか。虫がよすぎるんだし、他人を理解しなければいけないといういわれもない」
うーん、これも、すごく納得がいきます。他人の仕事を理解しないという権利。理解できない、ではなくて、理解しない、でもなくて、理解しない権利、なんです。義務に、ともすると追いまくられて、わたしたちは、権利に目を瞑っていることも意外に多いのではないか。大袈裟な権利はいま要らないのだけど、また、義務を遂行することなく権利ばかり主張することはもってのほかだけど、こういう抽象的な権利は、時にいいね、と思う。
わたしなんか、年をとるにつれますます臍が横を向くというか、もともと横を向いているのにますます磨きがかかるというか、若い自分から、理解されようなんてもってのほか、虫がよすぎる、という心境はあったが、「他人を理解しなければいけないといういわれもない」には、痛快、この言葉の迫力には恐れ入るばかりです。
「他人を理解しなければいけない」という、薄っぺらな文句は、よく小・中学の民主教育の中で、よくよく深く考えもしない先生達が、よく生徒に発する言葉の一つだと思いますが、またそれを、100%異口同音に唱えますが、「他人を理解する」のは民主教育でなくても人として当たり前で、「他人を理解しなければいけない」という、その教育感覚と言葉の質には、付き合いきれないというか、もう辟易しますね。
理解しようとしても現実、理解できないことは世の中一杯あるわけで、ましてや人間関係に於いてはなおさらでしょう。だから、理解しなくてもいい、理解する努力を御座なりにもしていい、と言っているのではもちろんなく、あくまで対象と時、場所によるわけだけど、「他人を理解しなければいけないといういわれもない」といった精神を、変な固まった義務感から解放する意味でも、ささやかにして抱くことがあっても、ちっともおかしくはない、と思うのだが。
ここ最近の本で、「○○する人、しない人」といった、二者択一的な題名のノウハウ本をよく目にしますが、まあ、それも一時の流行なんだろうが、例えば、「○○中学(or高校)に合格させる親、させない親!!」なんて、直截的で挑発的な文字が目に飛び込んでくると、「させる親」ではなく、否定の「させない親」に無理やりある種強迫観念を抱かせられるのは、「他人を理解しなければいけない」と共通した傲慢さがあるからで、それこそ、「人間には、他人の仕事を理解しないという権利がある。他人を理解しなければいけないといういわれもない」を発揮すればいいのである。
わたしなんかは、ふん、と鼻息荒く無視するか、ときに感情の所在が悪いと、
「この、糞ったれが! 恐らく相当単細胞で、低脳な奴なんだろうなあ。親を惑わし、無益で有害な情報を撒き散らすのも、いい加減にせい!」
と、これまた低脳気味に、罵詈雑言をこころの中に吐いてしまう。
この、○○に合格させる親、させない親、を、子供のことで心配され、悩んでおられる父母が目にすると、当然自分はどちらかに類する、と思わないわけにはいかないように仕組まれている感じだけど、少しく冷静に考えれば、なるほど中には、うまく合格させる親もいるだろうが、そのような親は合格した中のごく一部に過ぎないということ、また、合格させないタイプの親など確かに
少しいるだろうけど、それより難関私立でいえば、志望校であればあるほど合格するほうが圧倒的に少ないのはご承知の通りで、結果、本人の力が足りず、うまくいかなかったに過ぎない。
つまり、1%にも満たない中の両極端に、自分を当て嵌めることは自由ですが、無理に入れる必要性は何らない。それを、論理をすり替え、さも合格させない親で規定する、乃至当て嵌めようとする、またそう思わざるを得ないように二者択一的な思考をさせるのは、まったく唾棄すべきナンセンスであり、世の中ほんといま、この種の情報は多くなりました。そこらあたり、流されないようによく判断したいものです。
なんだか話の流れから、これが結論になってしまい、わたしの今回申し上げたい最初のことがらからずれましたが、まあ、蛇足としてあと少し付け加えます。
いろいろなご質問の中で、その背景と正確な情報が不足していて、問題の本質が掴みづらい場合や、出来ない生徒を出来るようにするには、また、教えて成績を向上させるには一体どうすればいいのか、なんて、途方もないおおまかな質問、永遠のテーマについては、「誤解する権利」「他人を理解しなければいけないといういわれもない権利」を、時に発揮するかも知れない、ということを記させていただきます。
特に後者の質問の場合、たとえ詳しく述べられていても、おおまかな一般論は言えても何ら個々の解決には至らないわけで、かと言って、相手が見えないこと、ずばずば問題の本質を抉ることはともすると大きな誤解を招く傾向にあるのがこの質問で、また説明を加えれば加えるほど問題点が拡がり、とてもたやすくメールで解明、助言できる内容では根本的にない。どちらにしても悪い印象をもたれるのが落ちでまったく困ったもの、別にいい役になりたいとはつゆも思いませんが、それなりの時間と苦慮を重ねても結果、不毛な始末になる状況だけは、できるならばあまり持ちたくないのが偽らぬところです。その点、あしからず、お願いしたいと思います。
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