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§47 入試問題の特徴を知る、ということは・・VOL.1
<論理的な思考力をみる?!・・・>
入試問題の特徴を知る、ということは、生徒にとってもご父兄の方にとっても必要かと思います。しかし、教える側の一員である私から見て、もし真実と真実らしさを求めることが好きだとすれば、それはテレビでこの女優はどう転んでも女医にはまったく見えない人が、何を血迷ったかキャスティングの妙というのか女医を演じてるのを見た際に感じる白々しさと、何かしら共通したも
のを感じてしまう。
「表現力をみる」「論理的な思考力をみる」「身近な題材を問題にして応用力をみる」――各都道府県の教育委員会は特徴もなく大体右へ習えの同じ発想で、公立高校の一般入試に措ける5科目の狙いは、この3つの視点で作られる。ゆえに、新学力観という名のもとに、昨今の公立高校の入試問題は、生徒自身の考えを文章で表現する問題が幅を利かすようになり、5教科全てに出されるようになった。その言い分は、「知識の量を問うより問題解決能力を重視する」というものだ。
おかげで新学力観に移行した当初、理念先行というか、生徒の努力をまったく無視したどう対処も仕様のない問題、手前勝手で独善的な、これでも高校入試問題か?!というような新傾向(?)の問題が多数出た。確かに質のよい問題も中にはあったが、こちらにしてみれば作り手の見識を疑いたくなるような、くだらぬ問題も多かった。さすがに行過ぎたのか、ここ1,2年は現実を知った、もう少しましな問題に戻ってきたが。
話は戻るが、「表現力をみる」とは、一体どういうことだ? 表現力を養成する授業を学校でやっているのか? 小学校で作文指導を積極的にどんどん行なってるのだろうか? 作文指導、表現力を向上する指導を、中学の先生が責任もって行い、それによって以前より目に見えて生徒の表現力が上達したのだろうか?
社会の入試問題を解いてるとよく出てくる言葉に、「著す」というのがあるのだけど、これは小学校で習う読み書きで、中学3年にもなって生徒は、「ちょす」と読んだり、「いちじるす」と読んだり、半数以上の生徒が「あらわす」とは読めないよ。(これは読解力ですが)
私の専門は数・英だが、たまに国語の指導なんかをしてみると、入試作文(300字)の形式ですら、本文と纏め・考えの最低2段落にして表現することを知らない生徒もいるし、誤字脱字はもちろん、乱暴な字や書体で書く生徒もいたりして、そんな簡単で基本的なことを学校で学んでいないのか、また学んでいたとしても、身につくように指導を受けていないのか、と疑いたくなる生徒
が多くいることに、毎年驚かされているのが現状だ。
読解力の上に表現力が乗っかっていると思うのだけど、その土台である読解力の貧弱さは、目を蔽いたくなるものがあり、国語ばかりでなくすべての教科にその影響は及ぼされている。数学では文章題の長文になると題意が掴めず、立式を組み立てられない。英語では長文がわからず、和訳に措いても直訳と意訳に戸惑う。社会や理科に措いても、記述式の問題になると、設問の形式通り答えられない生徒が出てくる。
ゆとり教育と新しい学習指導要領で、習う量が大幅に減った分、生徒の読解力と表現力に厚みが出ていいと思うのだが、現実はその逆で、学力のみならず読解力も表現力も以前に比べ低下している、と感じているのは私だけではあるまい。その表現力をみる問題が入試では増加しているわけで、この大きな矛盾とギャップに、頭が悩まされるというか、ある種の白々しさも抱いてしまう。
次に掲げる「論理的な思考力をみる」も、言葉の遊びみたいなもので、笑っちゃう以外対処のしようがない。しかし、現実の入試に臨む生徒を前にして、笑っちゃって済まされないわけで、過去問を解きながらあれこれ解説とポイントを教え、出来る限りのノウハウを強制的にも教え込む。が、それは束の間の知識にしか過ぎず、根本的に「論理的な思考力をみる」を養成しているものではない。
大体がして、中学生に対して、「論理的な思考力をみる」を求めること自体がナンセンスな考え、発想ではないのだろうか?! 自分自身を顧みるに、中学生の時に、論理的な思考力を持っていたか?――と、いえば、甚だ覚束ない。なにやらその片鱗が芽生え出したのは高校になってからだ。それも学校の勉強と関係ないところで育まれた(?)ものであるし、授業での論理学はさっぱり頭に入っていない。
デカルト、カント、ショーペンハウエルを読んだのもこの頃だけど、表層だけで、その論理的な弁証について行けず、またニーチェ、キルケゴールなどの書物も齧ったが、情緒的に汲み取るものがあっただけだ。私的なことになりましたが、ここまで固く捉えることもないわけですが、それにしても中学生に、論理的な思考力を求めるのは如何なものだろうか?!
それも取り合えず数学だけならわかるのだが、理科でも社会でも求めようとしているには恐れ入る。誰しも「論理的な思考力」で直ぐに想いだすとすれば、それは数学の証明ですね。一つの原型です。この原型を、実は厄介なことに、公立中学の生徒の少なくとも80%以上は苦手としている。
入試レベルの証明問題で易しいのはいいとしても(これもきちんと完成して出来ないのが実は3分の1はいますね)、応用となると、いくら説明してもその明快な「論理」を、生徒はなかなか理解しない。顔を観れば、思考が止まっているのがよくわかる。こんな有様で、論理的な思考力をみる、とは、いい加減にしてもらいたい、と思う。もっとその前に、基本的なことで、すべきことが一杯あるだろう、と言いたい。
「身近な題材を問題にして応用力をみる」と「論理的な思考力をみる」の両面で出された問題。H.13年度の兵庫県の理科の下記の問題は、まさにその典型か。
「白川英樹博士らは、電気を通すプラスチックの開発でのノーベル化学賞・・・・。下線部のようなプラスチックを使うことで、日常生活で利用する電気製品は、どのように使いやすくなるか」
〔兵庫県〕
恥ずかしながら私には出来なかった。制限時間2,3分として、私の頭は論理的な思考力を追求しようとしたが、途中で迷路に入り、引き返すばかり。その状況と弁解を書けば、原稿用紙1枚では足りないような気がするので、やめる。私より数段理科が出来る愚息(現在、理学部を目指して情けなくも一浪中)に訊くも、もごもご関係ないことを言うだけで、明快な答えが返って来ない。
恐らく答えは単純明快なのだと思うが、「身近な題材を問題にして応用力をみる」、の理科については、見事に転けてしまった。実際、入試に臨んだ中3生のどれくらいの者が出来たのだろうか?・・・
これらの新傾向と新学力観に対する、学参の出版社のアドバイスといえば、例えば下記のようなものだ。
「――― この出題傾向をしっかりおさえることが大切だ。思考力や表現力をみがくために、筋道を立ててしっかり考える力、自分の考えや意見をきちんと書き表せる力などを、いまから培っていく努力が必要なんです。またその土台となる漢字の読み書き、計算力をつけるのは当然です。この土台作りからスタートだ」
おわかりいただけようか、この抽象的で、不毛な対策とアドバイス。「出題傾向をしっかりおさえることが大切だ」、はわかった。次、「思考力や表現力をみがくために、筋道を立ててしっかり考える力、自分の考えや意見をきちんと書き表せる力などを、いまから培っていく努力が必要なんです」、とは、一体どうすればいいのか? 筋道を立ててしっかり考える力、自分の考えや意見
をきちんと書き表せる力などを、いまから培っていく努力、――努力はわかったから、「しっかり考える力と自分の考えや意見をきちんと書き表せる力」を、各科目に措いて、具体的に生徒にどうしろ!と書いてあるのか?!
土台となる漢字の読み書き、計算力をつける、がひょっとして具体的アドバイス? 土台作りとそのスタートはわかったから、問題は、5教科のそのあとの肝心な対策とヒントでしょう。このコメントがすっぽり抜けているではないか!! つまり、そこから得るものは何もないね。
今回はかなり批判的なことを書いてきた。ただ、批判だけなら誰しも出来ることで、それではあなたはどう思うのか、どうしなければならないと考えてるのか、どんな問題解決策、改善策があるというのか、などを少なくとも述べねばならない、と思う。いままでは述べてきたつもりだし、今後もその姿勢には変わりはない。が、しかし、今回に限ってはどうも言いにくい、というのが実情です。
何故か? それは一つに、昨今の新学力観といった入試問題作りそのものと見当はずれな考えに、深い懐疑感があるからであり、また反面、生徒の立場に立ってというか、その力のレベル(読解力、表現力、思考力、応用力、問題解決能力等のレベル)で入試問題を見るに、現実との大いなるギャップを埋める術を見出せないからです。
長くなりました。今回のテーマは1回で終える予定でしたが、結論的なことも述べず、また問題提起だけの感がするので、次回もう少し追及したいと考えています。
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