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§444 記憶力について
<確信したこと>
『人間の建設』という本をこのあいだ再読した。以前に一度触れたことがあるけれども、これはまさに昭和の知の巨人と呼んでふさわしい、批評家・小林秀雄と数学者・岡潔の対談集である。
その「数学と詩の相似」という章のなかで、小林秀雄が岡潔に話しかけている、ある部分を(勝手ながら)抜き出してみます。
「それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかしわたしは人間として、人生はこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしていることがまれなのです。そういうことをしている人は本当に少ないのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんありますよ。そういう文章は知識としては有益でしょうが、わたしは文章としてものを読みますからね。その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのです。」
この内容は1965年(昭和40年)、「新潮」に掲載された対談ですから45年以上も前になり、この間、時代の情勢も社会の背景、文化も大きく変わったわけですが、まだ日本人社会に流れる道徳や考え方、価値観や情緒などにいまよりずっと奥深くて健全な規範があった時代だと思うけれど、それでもまったく当時の社会を鋭利に分析し、洞察するふたりの目にはただただ畏れ入るばかりである。
そのほんの、ほんのひとつの例にすぎないけれど、この会話のなかの「自分の確信したことしか文章に書いていない」、「確信が現れていないような文章はおもしろくないのです」には、わたしはなにかほっとする想いがするし、全身全霊で共感を覚える。
なぜほっとするかというと、いまのテレビや新聞から、あるいはネットから来る情報、その厖大にしゃべっている、あるいは書いている人々の内容に、ひとつの知識や情報としてたとえ有益さはあっても、「確信」が感じられないからです。
もちろんいちいちすべての内容に「確信」を求めるなんてことは、逆にこれ不見識・非常識にすぎますが、そうではない一部大切に思える重い問題や情報に、「確信が現れていない」文章やテレビなどの解説と称するおしゃべりが、こうも日常的にごろごろしていると、ほんとそれをよけて通るのに草臥れる。そんななか、こうした文章に出遭えると、ちょっと疲れがとれるというか、ややもすると「確信」を感じとることがすくなくなってきた自分に、いささかの勇気がもらえたようでうれしいものです。
そういえば、フランスの思想家アランの次の言葉が、なんともじつに確信に充ちていて首肯できるし、また心地いい。
「私は記憶力は勉強の条件ではなくて、むしろまさにその成果だと信じている。」
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