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§407 一番遠いところから始める勉強法 <特に小学生とそのご父母の方に向けて>
勉強のしかたにはさまざまな方法や意見がありますが、その距離感からいって、実は一番遠いところから始める方法というものがあるものです。
ふつうは一番距離が近い方法に関心があつまり、好まれ、直接効果のある、また効率的な学習法を捜し追い求めているのが大多数といいますか、99%はそれでしょう。
わたしもHP上で、これにまつわる勉強のしかたの中心部分や、あるいはその周りのあるさまざま細かな生徒の学習上の問題点や課題、考え方、さらに受験に関する知識について、これまで数多く述べてきました。
ただし、「すぐに効果の出る学習法」や「効率的な勉強の仕方」などについては、言葉ハシタナクも糞喰らえと思っているので、他のHPはともかくわたしのHPではまったくあずかり知らぬところであります。
これをもうすこしマジメにいいますと、いかなる学習法もまずその遂行には、継続と時間がかかります。継続していくつよい意志とできる限りの静かな辛抱、そして3日や1週間といった気まぐれな期間ではない、もっと息の長い時間がかかります。
さらに、それまでのその本人の学習習慣の実相と身につけてきた学力の度合いに実は深く関連されるもので、それをもし顧慮しない場合の学習法は、本来成り立つものではないと考えております。
これらのミスマッチの代表的なものが、これまで地道でかつまともな勉強をほとんどしてこなかった、あるいは努力と試行錯誤を積み重ねてこなかった生徒の多くの問いと、すぐに効果の出る学習法や効率的な勉強の仕方などを説明している情報またはその遣りとりでしょう。
ですので、できるかぎり成り立つ条件と対象を限定すること、そして想定してつねに書くように努めています。まあ、コツコツ努力を要し、時間もかかるのが当然の勉強法であります。あるいはその周りに多くある問題点や課題などを、つねに述べるように心がけています。
さて、このような勉強法やその問題点のなかで今回、その中心部分から大きく離れて、すぐに効果も出ない、効率的とはなんら関係もない、そしてその距離感からいってもっとも遠いところから始める勉強法というものをひとつ、書いてみることにします。
それは、地図帳をみることです。社会の勉強ですね。勉強というより、遊びの要素がつよいんですが。
過去に実際、中1の社会で実践したことです。生徒10数人を前にして。
おーい、今日もまた29と30ページ(たとえばヨーロッパ)を開けろ。よっしゃ、いくよ! ベルゲン。
生徒はいっせいにベルゲンを捜し出す。目は必死にあちこち動いている。誰もが無言。1分経ち、2分経ち・・・。やがてひとりの生徒が勝ち誇ったかのように甲高い声で、先生、見つけたあ、と発する。○○、どこだ? みんなに教えてやれ、とわたし。東経5度、北緯61度くらい、とその生徒の声。
みなその位置を確認。では、そこを赤ペンでしっかり囲め、と指摘。はい、では次。パレルモ。今度はもうすこし早い。1分くらいで別の生徒がうれしそうにみつける。同じ遣り取り。およそ東経13度、北緯38度の位置。(ちなみにベルゲンもパレルモも、直接の勉強にはまったく役立ちそうにない地名です。)
これは3回目の授業である。初めは各国の首都を捜すのが問題。教えることはその場所がどこかが皆にわかるため、東経と北緯の線を説明するのみ。地図帳の○印はもう30個余りにもなっている。次第に地図帳をみる目が馴れてきたが、まだまだである。山脈、河川、平野、半島、海・湖、島、高原などなど、ある程度捜すアイテムをその都度限定しつつ、都市名と混ぜて、地図帳をただただ観る訓練(or遊び)。赤以外に緑や青、そして黒のボールペンも使い、代表的な国はその人口まで地図に書き込む。
時間は30分から長ければ1時間くらいにもなる。そのあとの残りの時間が授業である。これでは本末転倒? 常識的にはそうである。しかし、ほんとうに大事なことはなにか? たぶんにその場かぎりに近い定期テストの成績や薄っぺらい実力ではなく、地のなかにしっかり根が生えた実力とはいったいどのように養い得られるのか、そこをこの際、すこし考えてもらいたい。
さらにもうひとつ、副次的な意味であるけれど、公立の中学に上がってきた生徒の8〜9割は当て嵌まると感じているのだけど、社会(地理や歴史)に関する雑多な知識はもちろん、基本中の基本の知識ですら驚くほど痩せた状態で中学に進学してきている、その原因はどこにあるんだ?!とつよく思っています。
文芸批評家小林秀雄と数学者岡潔の対談集『人間の建設』(新潮文庫)という本を、最近たまたま本屋でみつけ買いました。わたしの学生時代、二人とも知の巨人のごとく雲の上のような存在であり、どうにも近寄りがたく、それにいまなら別ですが、そのころ心酔していた太宰治をけちょんけちょんにくさす小林秀雄には大いに反感を抱いていたので、彼に接近することを極力避けてきたものです。
しかし読んでみて、ふたりの会話の遣りとりが、じつに当意即妙でしかも切れ味するどく、あるいは高遠でそれでいて洒脱しており、じつに味わい深いのです。目からうろこ、吾がぼけ気味の頭のなかをしばしば叱咤、覚醒させてくれます。
そのなかに、「素読教育の必要」という対談内容がありました。そのまま抜き出すことは憚れるので、その一部だけふたりの主張をまとめつつ書きますと、次のとおりです。
人間、ものをおぼえる時期というものがある。この時期というのは、おぼえざるを得ないらしい。出遭うものみなおぼえてしまうらしい。それもなんの苦労もないのです。記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするとよい。
昔はその時期をねらって、素読が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これを暗記強制教育だと簡単に考えるのは、悪い合理主義だと指摘している。
論語を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味だというが、それでは論語の意味はなんでしょう?と問う。それは人により、年齢により、さまざまな意味にとれるもので、一生かかってもわからない意味を含んでいるかもしれない。それなら、意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう、と。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育である。これは逆説的に聞こえるかもしれないが、いまの教育法がいちばん忘れている真実がここにある。
論語は万葉の歌を同じように、意味を孕んだ「すがた」なのである。古典というものはみな、動かせない「すがた」である、と。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしてきたと考えればよい。
ただし「すがた」には親しませるということができるだけで、「すがた」を理解させることはできない、と。
ここからさきの対談の内容はさらに高尚に、また哲学的に止揚していく雰囲気なので省かせていただきますが、上記の部分だけでもじゅうぶん示唆に富んでいるものがあるかと思います。
地図帳をみるということも、素読に通じるところがあり、「すがた」に“親しむ”行為というか作業であるかと、わたしは考えております。
生徒は、その成績いかんにかかわらず誰もが横一線、嬉々とやってますから、そりゃあなかには内心しぶしぶの者もいるでしょうがそれは素読も同じで、まあ全体として、これも意味を孕んだ「すがた」なのだと思います。
東経や西経、北緯と南緯の意味だけは最低教えますが、それ以外はいっさい教えない。簡単に理解させることが目的ではないから。ただ「すがた」に親しんでくれればいい。それでもそのうちに、なにかに気づき、また発見し、やがてはなかに、疑問に思うところを質問をしてくる生徒もいる。
ある程度同じページをやり、次に別のページに行き、そして時には戻り、こんなのを20回、30回、40回と続ければ、何かが蓄積してくるものである。それを自分で、白紙の用紙に地図を書き、まとめれば、自分だけの地図ができ上がる。楽しいなかで、さらに楽しさを追求して。
物を知り、物をおぼえる時期。「素読教育の必要」の言葉をもう一度借りれば、この時期というのは、出遭うものみなおぼえてしまうらしい。それもなんの苦労もなく。
記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするとよい。幼児期のころは除いてふつうそれは、小学高学年の頃であろう。中2以降ではよくご存じのように勉強に部活に塾にととても忙しく、あるのは中心部の勉強で、今回の距離感からいって一番遠いところから始める悠長な勉強などとれないわけですから。
字をおぼえさせたり、文章を読ませたりと同様に、こうした遊びの勉強もできたらすこしお勧めしたい。なにもたくさん人数がいる必要もなく、基本二人以上なら可能です。いえ、ほんとうは一人でもできるんですね。わたしも似たようなことを、小学5,6年のときに勝手気儘にやりました。
日本地図からでもいいのだけど、それよりまったく未知に近い世界地図から始めるほうが刺激も多く、かえって面白いように思える・・・。もちろん個別にやって、楽しく感じる生徒もいれば、そうではない生徒もいる。後者がずっと多いのは間違いない。楽しく興味を持つようならやって、関心や興味がわかないようならすぐやめればいい。それだけの話である。
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