世にある勉強法<説得力に欠ける>
  
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  高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§319 世にある勉強法
<説得力に欠ける>

 このあいだ、免許の切り替えに行ってきました。交通安全協会で2時間講習を受けるやつです。模範的ドライバーなら、もっと手続きが簡単といいますか、こんな講習を受けないで郵送かなんかで更新は済んでしまうらしいですが、わたしの場合、自慢じゃありませんが免許証をとって30数年、ずぅーとこの2時間講習を受けているという、これがまあ当たり前の更新手続きなんですね。

 いい加減イヤになります。昔はたしか誰でもこの講習を受けたはずなんですが、そして途中から制度が変わってもっと簡略化したわけなんですが(強制的に講習を受けるため、まったくその仕組みを知らない)、その恩恵を受ける立場にこれまでついぞ入ったことがありません。

 以前は駐車違反かなんかで、最近は原付でのスピード違反とかで、必ず減点1や2をもらいたくないのに強制的に与えられてしまうくちで、事故のほうはとんと無い(ただし、若い頃にバックで電柱にぶつかったり、凍結で橋の欄干にぶつけたりはした経験はありましたが)にもかかわらず、この違反だけはどうもしつこく付きまとって、3年間に点数がゼロになったことがありません。

 そのためどうしても2時間の講習を受けるのですが、そしてここまで来ると常連者の域は超えて、ある意味講習を受ける達人(?)になってしまいましたが、そこでは当然、講習をされる方(たいていは長年警察勤務をされた人ですね)に否応なくつき合わされることになります。なにがなんでも免許証をもらわないといけないこちらとしては、話す内容がつまらん、と途中で帰るわけにはいきません。

 じっと我慢。しかし、同じ時間を過ごすのであれば、気持を捻じ曲げて前向きに、そしてひとつでも役立つ知識がアタマに入ればと臨むようにするわけです。ところが今回はヒドかった。元警察官の職務遂行への生真面目さと堅い姿勢がそこここに滲みでてまだ抜け出せていないものだから、話し方はもちろんその話す内容が、練られてはいるのだけどひどく味気ない。

 府内の自動車事故数の実情、死者数の推移や交通法規の修正内容、飲酒運転の罰則や減点の計算のしかたほか、統計資料を用いグラフでやたらと数値を羅列して言ってくれるものだから、そして次々と内容の暗いことをしゃべってくれるものだから、こちらの気分は滅入ってまともに聞く気持も萎えていく。これって、なにかに似ていますが・・・。

 1時間の講釈のあと10分の休憩、後半は事故のビデオを観せられるのはいつものとおり。そのあとの話がまた、いけなかった。なにがどういけなかったのかは、耳をほとんど塞いで聞いていなかったから、書けるはずも無い。

 まあ強いてこのことから学んだことといえば、逆の立場に立たされ、その心境と実情をあらためて知ったことぐらい・・・。

 勉強法もね、こうしたら成績が上がると、何十か条も羅列したものが、書籍にもネット上にもずいぶん書かれており、また、たとえば「受験合格への道やっていけない20のこと」といった見出しで、表現はまったく逆の形ながら、さもこれが正しいのだという主張や意見を述べているのも目にするけれど、そして実際にその内容を精査吟味すればずいぶんいい加減なことや、それはあきらかに違うだろうと呼びたいものもいっぱいあるのだけど、それらをひっくるめて、その受け取り方や実行のしかたは、結局本人次第、ということになるのであろう。

 それもこうしてわたしのように、聞く耳を塞げばなんの意味もない。
 しかし、一方でわたしは、このように考えていた。話す中身を次々とメリハリもなく羅列するのではなく、そのなかでどうしてもこれだけは伝えなければならないというものだけに、もっと絞り込みたい。そのため聞く側の印象に残るよう、思い切って三分の一に減らす。その三分の一の中身をゆたかにして倍にする。残りは質疑応答だな、と。

 情報と知識だけで、その講習は成り立っていた。つまり、知恵の吐露がないのである。なんの仕事でも数十年もやれば、必ず大きな知恵をいくつか身につけるものだ。そのひとつの知恵でも話に織り交ぜて語ってくれれば、講習を受けている老若男女、どの年代層にももっと深く突き刺さるものがあるのにな。

 国語の問題集を制作しているとき、「失敗学の進め」で有名な畑村洋太郎氏(現在、工学院教授)の文章の問題を、ひとつ入れました。その一節。
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 多くの学問がそうであるように、このときはこうすべきだという「うまくい
く方法」を教える講義を行っていると、眠そうな顔でつまらなそうにそれを聞
いている学生がたいがい何人かいるものです。それが失敗の話を始めた途端に、
そのような学生たちまで一転して目を生き生きとさせ、熱心に聞き入るという
ことがよくありました。この原因を私なりに考えてみたところ、「同じ失敗を
してはいけないと感じることで、学ぶ必要性が生まれたからだ。」という答え
にいたりました。<あとは省略>
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 知恵の多くは失敗から学んだものが多いと思われるのだが、世にある勉強法のほとんどは「うまくいく方法」から成り立っており、それをたいていそのままよく考えもせず、すぐに自分に当て嵌めようとする。つまり、失敗には目を向けない。「うまくいく方法」というものはいわば氷山の一角、海面上に見えているのはご存知のとおりほんの一部分で、その海面下にある氷山の本体の存在が、わかっているようで実のところわかっていないのか、どうも見えていないのである。

 だから実際には「うまくいく方法」を目指しても、その前に海面に隠れている氷山に衝突し、沈没するのだろう。

 しかし、これはまだしも、行動した結果のことか。眠そうな顔でつまらなそうにそれを聞いている学生たち(上記の講習でわたしも入る)の場合は、どうか。つまり、このときはこうすべきだという「学習法」を聞いても、さっぱり関心を示さない生徒の場合。

 それは、「同じ失敗をしてはいけないと感じることで、学ぶ必要性が生まる」話し方と工夫が、ひとつにまだできていないのだといえるのかもしれない。情報や知識をそのまま伝えても、そしてそれらがたとえどんなに有益なものであろうと、その内容に知恵を含んでいなかったり、あるいは知恵を感じさせるものがなければ、説得力にはおおいに欠けるのではないか・・・。そう、今回思いました。