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§256 無駄と効率的について
<理に適わない>
無駄と効率的について、今回すこし書いてみます。
「無駄」という言葉を辞書で引くと、「役に立たないこと。益がないこと。甲斐がないこと。」と載っていました。また「効率」とは、「機械の仕事の量と、それに供給された全エネルギーとの比。使った労力に対する、得られた成果の割合」と書かれていました。ついでに「労力」とは、「何かをするために心身を働かせること。骨折り。」です。「効率的」とは、「無駄がないさま」を表しています。
無駄という言葉の使われる対象は、あっても役に立たないものなど他者への評価、或る事に気持を込めてしたのに益や甲斐がなかったと感じるなど自己への感慨、そしてたとえば「時間を無駄に使うな」など警めの意味で用いる場合、の大きく三つにわけられそうである。
どれを対象としてもこの言葉の持つ性質と響きは、多分に客観的で断定的であり、そして非難や批判の言葉として対象物の上に被せられる。しかしね、真ん中の場合はどうなのだろうか? 「或る事に気持を込めてしたのに益や甲斐がなかったと感じるなど自己への感慨」の場合です。これはたぶんに情緒的判断といいますか、主観的傾向が強いのではないでしょうか。
下の文面は、或るお母様とわたしのメールの遣り取りのなかのごく一部です。ちょうど今回の内容に合致するところがありますので、載せさせもらいます。
「物事には必ず両面があって、合理的であればあるほどその反面、なにかを欠落していることが多い。逆に、無駄なことであっても、無駄そうにみえても、また非効率であっても、あとあとそれが、それを意識するしないに関わらず、役立つことは、勉強のなかに限らず人生のなかでも、とても多くあるように思います。」
「親は子供にできるだけ無駄なことをさせないように導いていくことのみにこだわって、大切なことを忘れてしまうことがあります。良いタイミングで、先生のアドバイスをいただけて、よかったです。」
わたしは個人的に、「無駄」という言葉にみょうに親しみを抱いているせいか、無駄がどうして悪い?!と思ってしまう、まあ臍が曲がっているに過ぎませんが、その無駄がはたしてほんとうに要らないものかどうか、そう簡単には決められないよ、と思っているわけです。この無駄は、他人からいくらそう判断されても本人のなかでそうでなければ、どんどんやればいいものもあるだろうし、それがまたあとあとどう転ぶかはわからないのではないかと考えている。
わたし自身も小中高(もちろん公立)とそのなかでずいぶん無駄な勉強のしかたをしてきたと思うけれど、心底には思っておらず、まあしかたがないわぐらいの感触であり、むしろ無駄から結構学んできたようにも捉えている。もちろんそのときは、無駄なことをしているとはつゆとも思わず、またそんな意識を微塵も感じていなかったはずですが。
ちょっと嫌味な表現になりかねませんが、現在33冊もの問題集を創りあげてきてそれらを有効に活用していただいている(? いや有効に活用していただいているだろう? いや有効に活用していただいていてほしい・・・。いやなんとか有効に活用していただければとても有難い)のも、そのひとつひとつの問題集のなかに、20数年の塾指導でのノウハウや実際の生徒の学力のつきかたをつぶさに視て来た経験と知識が精一杯盛り込んであるからに他なりませんが、それと倶に、数々の無駄や無駄と看做されている事柄をとおして学んだこと、そしてそれが後々になってやっと役立ったことなども、問題集作成の根底には大いに流れていることを認識しております。こんなわたしの卑近な例を出さなくとも、世の中に、歴史に、そんな事例はいっぱいあるかと想いますので、これ以上は書かないとして。
さて「効率的」とは、「‘無駄’がないさま」というのが辞書の意味です。そしてもう一度書きますが、「効率」とは、「機械の仕事の量と、それに供給された全エネルギーとの比。使った労力に対する、得られた成果の割合」を意味しています。「労力」とは、「何かをするために心身を働かせること。骨折り。」ですね。
きわめて大雑把な書き方をしますが、分業と協業による工場制手工業からやがて大規模な工場制機械工業へと発展、またその後の過程にはさまざまな効率化が図られてきたことはご存知の通りです。現在では農業、工業ほか物の生産にはつねに効率が求められ、あらゆる会社(自治体もそうでしょうし、あらゆる組織にまたがりますね)は、物・人の両面で効率的経営を至上目標として取り組んでいます。
なぜこのようなことを書いたかといえば、「効率的」というものが指している元々の定義、そしてそれが意味する内容と対象を、ちょっと考えてもらいたいと思うからです。「機械の仕事の量と、それに供給された全エネルギーとの比」から「使った労力に対する、得られた成果の割合」に、その意味合いが移行したとしても、基本的には自己へのではなく他者への働きかけでしょう。
それは、自分が自分自身にたいして働きかける言葉ではない。自分自身を完全に制御管理できる人間なら、この「効率的」という概念を当て嵌めることはできようが、それはもはや人間ではなく物であろう。然るに、この言葉を履き違えて、あらゆる学習法のなかで無頓着にも「効率的な勉強法」なんてフレーズを使って、さも実体があるがごときことを述べている。ちゃんちゃらおかし
いのである。
自分は勉強は苦手である。大嫌いである。机に向かってもすぐに飽きてしまう。また他のことをして、なかなか取り組めない。どうしても集中して勉強が出来ない。勉強したことがなかなか頭に入らない。などなど、否定的な言葉だけはしっかり言うが、我慢も忍耐も知らない、できない、またこれまでろくすっぽ勉強もしてこなかった生徒は必ず、次のような質問をする。
「どうすれば効率的に、また集中して勉強ができるようになりますか?」と。
これをいま、‘無理やりに’効率の定義である「使った労力に対する、得られた成果の割合」に照らすと、「労力」とは「何かをするために心身を働かせること。骨折り。」であるから、勉強の場合、差し詰め、学力や成績を上げるために、やる気と頭をしっかり勉強に向けて骨折ったことに対し、得られた成果、つまりテスト(定期や実力など)の成績が以前と較べいかに上がったか、その割合を診ることになろう。
よって「効率的に」というのなら、それまでに自分としてすでに、やる気と頭をしっかり勉強に向けて骨折っておかねばならないのであって、それが要領が悪かったり無駄(?)が多くて改善する余地がある、そのような状態のときに少なくとも用いる言葉であろうと思うが、上記の質問者のような生徒にはこれがまったく想像し得ないのである。「効率的に」というまずその基盤が、そもそもない。
では、そこそここの基盤がある成績のいい生徒の場合、「効率的に」勉強を推し進めることができるのか? この問いにも、困惑する。なぜなら、無理やりに論を進めただけで、わたしの答えは、すでに書いてありますから。
以上、無駄と効率的について、いささか抽象的ですがわたしの見解を述べてみました。それは、無駄をできるだけ省きもっと効率的に勉強するいった、いまの主流になっている考えとは、まったく極を異にしています。
無駄にも、排除しなければ前に進むことができないつまらぬ無駄もある一方、あとになって役立つ無駄も結構ありますよ、ということ。また効率的にも、しなければならない効率化も世のなか当然たくさんあるでしょうが、それは勉強の分野に当て嵌められることではなく(それはここほんの2,30年の風潮にすぎない)、理にも適わないということ。これが今回のわたしのいいたき点であります。
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