高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§236 奈良で起こった痛ましい事件について
<男の論理を押しつけると・・・>

 かの大隈重信や江藤新平(明治初代司法卿)など多くの俊秀を生んだ佐賀藩(肥前藩or鍋島藩ともいう)は、明治に入っても全国的に非常に高い教育県であった。なにしろ藩の教育に重きをおく政策と情熱は相当なもので、出来の悪い生徒を持つ藩士の禄高は藩命により削られるものだから、みな目の色を変えて、極めて真面目に勉学に勤しみ、家族も応援、猛勉強をしたらしい。

 この藩の遺風は明治になってもしばらく続き、全国的な模試(?)では絶えず佐賀県出身の学生が高位を占めるというか、県の比較でも第1位を独断する、そういう時代があったと、何の本で読んだか忘れてしまったけれど、確か書いてあったのを覚えている。

 それとはまったく背景も時代もまた質も違うので比較にもならないのだけど、大学センター試験の都道府県別得点率の成績の割合では、これは記憶が曖昧ではっきりしたことが書けないのはご了承していただくとして奈良県はたしか、東京都、大阪府、神奈川県などと並んでかなり上位(5位までに?)に位置しているのを観て、へーっ、そうなんだ、と軽い驚きをもって読んだのは最近のこと。

 現在、奈良県がなぜに教育レベルの高い県であるのか、その理由をそのとき少し考えてみたが、わたしにはわからない。公立で伝統校は2つ、私立中高一貫校では3つ乃至4つあり、漠然とはその実績も知っている。人口に比してその数が割合多いのか、その他の公立高校のレベルもそれほど低くはないのか、ご父母の方々の教育熱も全般に高いのか、おそらくいろんな要因があるんだろうが、これといった決め手はわたしにはわかりかねる。

 その奈良県で今回、痛ましい事件が起こりました。某私立中高一貫校の高1生による、奈良県田原本町の医師方が全焼、妻子3人が死亡した放火殺人事件のことですね。できることならこういう痛ましく哀しい事件には、個人的に思うことはたくさんあったとしても触れたくない。興味本位で見たくもないし、第3者にすぎない者が事件の報道が伝わる範囲の情報だけでああだこうだと勝手に想像と類推を交え、穿った意見や論評を吐くのは心情的に潔しとはしないからだ。

 ましてや誰が悪い、こうすべきだったと、その手厳しい批判の多くは少年の父親に向かうのであろうが、この事件の外観は言うまでもなく同じ肉親内に在るという点、なくなられた妻子3人のあまりにも大きな犠牲があった上に、残された2人、それは同時にある意味、加害者は被害者でもあり、被害者は加害者でもあるという抜き差しならぬ状況下にいるのであり、おそらくいま、父親
はその全人格が完全に破壊されて奈落の底にいるのであろう。その奈落の深い穴にどうして唾を吐けるであろう。
 
 わたしなら、自分が妻子3人を殺し、息子も事実上殺した、と深い深い深い自責の念に捉えられるに違いない。いままでの人生を否定し、これからの人生も完全に否定するであろう。医師であるその父親は、何も身につけていない素っ裸である自分の感情に戻って、いま、世間と周りから寄せる白眼に身を晒し、自分に唾を吐き続け、己を責め苛みつづけているに違いない。そしてそれは、残りの人生があるとするならば終始抱き続ける重い業を背負い、罪の意識と悔悟の感情から逃れる術はなにもないのだといえる。ああ、上で書いたことに反して、これも勝手な一想像に過ぎませんが。


 さて、親が子供を直接教えることについて、この点に関してだけ少し書きますね。うちはこうだからと分析、納得、安心されている方もおられるでしょうが、いま、これでいいのか、と心が揺れ、戸惑いを依然と感じている方もおられるでしょう。

 親子の関係、夫婦の繋がり、兄弟姉妹の有無、また事情があり母親だけ父親だけで育てている方もいまや比率が上がってきていますし、さらに一般には核家族が多いとしてもお祖父さん、お祖母さんとの同居をしているケースもありますし、本人を取り巻く家族の状況もさまざまな世の中ですから、一概にこうだという枠をはめた念いも、また掘り下げた考えも格別持ち合わせてはいませんが。

 よく週刊誌なんかで難関私立中学の合格体験記、それも母親と強力なタッグを組んで積極的に受験に関わり、みっちりじかに勉強を教えている父親の姿、存在がアピールされていたり、また合格するには現実そこまでするのが当然であるが如く、父親の参加と協力なくばなかなか中学受験には通じないような内容の記事が載っていたりしますが、まあ、これはこれでご苦労が多々あるのでしょうが、わたしは世の中の男性の多く(?)と同じで、どうもこれは腰が引けるほうです。

 私立に行かせる経済的余裕がない、勉強は自分でするもの、他人の世話になる必要はない、高校の段階で本人の勉強への力量は決まる、その為には公立のトップ校であれば十分、などの硬い理由から、自分の子を教えるのは面倒だ、煩わしい、家で息抜きができない、そもそも頭がもうついて行かない、などの軟弱な理由まで挙げると、まだまだ足りないか。

 しかし、意識下にあるものをもう少し探ると、こういうことも言える。
 勉強は、するべき時期には本気でやらねばならないもので、そこには勉強に関してはどの科目も中途半端な理解や習得には一切妥協しない、ただただ深く完璧な理解とまた完全に自己消化したあとの実力の証しを求める精神があり、それを自分自身に当然のこととして受け入れ厳しく課してきた父親であっても、大きくふたつに枝れるであろう。その厳しさと本気を子供にも求める者と、子供は子供なりに自分で考え、行動すればいいと思っている者、とに。

 これが母親なら、母性愛から多くは前者に当て嵌まるだろうし、それは至極当然のことである。そして母親がどんなに厳しくまた感情的になって叱っても、口うるさく勉強をしなさいと終いには喧嘩になっても、そしてまた直接本気で子供に勉強を教えても、子供にとってはどこか穴が空いているのであり、救いがあるのであり、逃げ道があるのであり、最後まで追い詰められることはまずないように思える。

 ところが上記の前者の父親の場合、もし子供を教えるとなると、自分が経験したように厳しさと本気を子供にも求めるのだから、そこには男特有の論理のネットを張って、下手すれば子供に出口のない圧迫感と妥協を許さない勉強を強いることにもなる。これがまた父親と女の子であれば違う感覚と空気にも染まるだろうが、父親と息子となると同じ論理の土俵に乗るだけに、感覚では否定しても論理では従わざる得ない状況に子供は立たされるのだ。その耐えられない反撃が・・・。

 今回の痛ましい事件のその背景にあるその半分の局面だけを照射してみてのわたしなりの考えを書いてみました。本人自身が自発的に勉強し、本気を出して(この本気の程度が非常に甘い、また出せない生徒はいくらでもいますが)自らを異常に追い込んでいく、そしてひとつひとつ立ち塞がる壁を突破し、さらに上の学力をつけていくケースは古今幾多とあるものの、その状態を具現化するために親が直接教えるとなると話はまったく別であり、あほな異常であり、高校生にもなってまだ親が直接介入、指導するのだけは、忌避するのが基本であろう。ここにはその応用も変形もありはしない。いいとこ、中学までで、それも徐々に学年が進むにつれ、距離を置き、手を引いていくことが望まれるでしょう。ほんとうに高校の学習をこなす力を、本人自らがつけるためにも。