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§226 またまたミスについて
<たいそうな事は、4つ>
今回はまたまたミスについて言及してみたいと思います。いや正確にいうと、言及したいなんて、欲しているわけではさらさらなく、また気持ちが前向きに働いているのでもなく、言及せざるを得なくなったというのが、ほんとうのところ。
すでにホームページ上の「§188 ミスについて」「§123
間違いは、果たして直せるのか?」にて、ミスに関する内容はそこそこ叙述していますので、もうこの話題はいいだろうと思っていたのですが、相変わらずといいますか、これは普遍的悩みでもあるので、「ミスをなくすにはどうすればいいか」とか「ミスはどうしたら防げるのか」というご質問を頂くことがありまして、ほとほと困惑しておりますので、困惑ついでにもう一度書くことにいたしました。
まずミスへの認識ですが、「ミスをなくすにはどうすればいいか」という、問いそのものとその発想の出発点からして、どうもおかしい。自分の学生時代のことをすこし振り返るだけでいい。ミスはなくせたのか、と。ミスをする自分の意識の世界からそれを追っ払い、撲滅できた記憶があるのか、と。もうほとほと懲り懲りなんだけど、わたしなんかはいまだに厭きずにやっている。
ミスにもいろいろ種類や程度がありますが、まあ一先ずそれらをひっくるめていいますが、人にはミスはつきものでしょう。ミスは、なくせない、どう転んでもなくせるものではない、という当たり前のなんでもない事実に立脚して考えていくべきかと思うんですね。つまり、ミスはなくせないものだけど、減らすことはなんとかできるだろう、という方向で。
しかし、その前に、「ミス」を単なるケアレスミスでよく捉えていることが多いかと思いますが、つまりその意識は、ミスをしなければもっといい点数が取れたのに、とか、こんなところでペケにされて損をした、とか、はたしてそれは本人が思っているとおり単純な原因によるものだろうか? そしてほんとうだろうか?
これがほんとうでこれはほんとうでないと線引きすることは、ここでは実物がないからなんともいえないけれど、たとえば実力テストでその平均点が48点として、Aの生徒は82点、Bの生徒は58点だったすると、そして明らかに単純なミスといえる点数がAが3点、Bが8点あったとしたならば、どちらのミスを減らせるとお思いますか?
ほんと無意味に思える質問なんですけど、現実の生徒の大半に当て嵌まる、実に多い事例といえるでしょう。BのほうがAの3倍近くもミスっているのだから、減らせるのはBのほうがより容易であろうと思えるし、いや、Aの生徒のほうがよくデキルので、注意力や改善する力は上に思えるからAのほうがミスを減らせるのではないか、という見方もあるでしょう。
わたしの答えを参考に書きますと、どちらも減らせない、です。こうはっきりと断定するのはよくはありませんが、一般的にはそうなります。
勉強ってね、新しいことをただ教えるだけなら簡単なんです。そんなにたいそうな事ではない。まあしかし、そのたいそうでないことしか、いまの小学校でも中学校でも教えていない、また教わっていないとはいえますが。
いまここで把えるわたしのたいそうな事は、4つあります(あくまで教える側からの視点でいえば)。
その一。教えた内容が、わかったものであると生徒は感じていること。その
理解の姿勢と認識の甘さ。
――おいおい、それならテストでみんな、100点とはいわないまで
も80点や90点は簡単に取れるだろうが・・・。
その二。人間に必要な「忘却」だけど、それを勉強の中にまで持ち込むな。
――時間が経つとなんでこうもあっけなく、習った基本やまだまだ
高が知れている、覚えておくべき学習知識を忘れるのか?! 実力
との落差を埋めることのなんと大変なことか・・・。
その三。応用レベルになると思考力が随いてこない。
――応用問題をするという意味がわかっていない。当然、その学習
のしかたもわかっていない。わかっていないから、そのやり方をい
う、しかし、それがほんとうにはできない。
その四。ミスを減らすための意識と自己分析がいつまでもできない。
――ミスをすれば、ただそれを直すだけ。どうしてしたのか、どこ
に原因があったのか、それを探る沈黙の時間、作業がない。
細かなものはこれ以外にもまだ、さまざまとあります。また上記4つに含めませんでしたがもっと深く大きなものとして、中学生なら小学校で習って当然身につけているべき学習に関する基礎知識とその基本学力、とりわけ読書を通して自らが本来つけておくべき読解力、そしてまた勉強以外で吸収した雑学力などが、いったいどうなっているんだっ?!という問題があります。それらの
力がいま、あまりにも低下している。このことは、いままでにかなり書いてきましたが。
自分で勉強するなら、なにもたいそうなことではない。新しいことを学ぶために、上記のことができるようになっておくこと、また意識しておくことは基本であり、当然のことに過ぎない。こんな問題点をいちいち論うこともなく、意識するしないに拘わらずまた必要であろうとなかろうと関係なく自由にし、しなければならないことをただ単に自分でする、それゆえあちこち要領が悪く壁にぶつかりつつも、試行錯誤をして少しずつ改めていく、それが勉強を進める本来の、基本の姿であろう。それだけのことに過ぎないし、中学ではそれだけでよい。
しかし、この勉強の基本の姿と力を持っている生徒の割合は、25年も前から漸減していたのであるけれども、ゆとり教育の愚策でさらに急激的に堕ち込んでしまった。いまの公立中学の生徒ではせいぜい、5人に1人しか持っていないだろう。たいそうなわけである。
言い換えれば、5人中4人もの割合で勉強の基本の姿と力を持っていないということは、たいそうな事4つすべて持っている、とも言え、それらが地下茎で複雑に絡み合い縺れ合っているわけですから、「ミスをなくすにはどうすればいいか」なんては愚問もいいところで、「ミスを減らす」ことでさえ実のところ、単独の問題として抽き出してあれこれ述べてみても、それは面の中の点でしかなく、ましてや勉強するのは当事者本人ですから、そこまで伝わるのは限りなく可能性が低いといわざるを得ません。
よって、話をすこし戻しますが、
「たとえば実力テストでその平均点が48点、Aの生徒は82点、Bの生徒は58点、そのなかのミスといえる点数がAが3点、Bが8点あるに対し、どちらのミスを減らせるか?」の問いで“無意味に思える質問”と書いた意味がお解かり願えるかと思います。
また「一般に、どちらも減らせない」の理由ですが、Bの生徒のそれは十分上で説明しました。その一からその四までじっくり考えて、それらを直すことに目を向けてもらいたいと思います。Aの生徒の場合は、減らすことが既にできているのです。100分の3は許容範囲でしょう。それよりむしろ、できなかった15点分を如何に埋めるか、その反省と対策をするのが課題といえます。
最後に、数々あるミスのなかの代表的なもの4つについて、その捉えかたの考え違いや意識について書いておきます。
・たとえば数学の計算問題50個あったとして、42問はできた。8個ミスをした、のなら、それはミスという言葉で片付けるレベルのものではなく、まだまだ単に、基本の演習をたっぷりするのを怠っているだけの力不足にすぎない。(100点満点でいえば、42問は84点になり、数字のトリックというか、まあまあできているじゃあないかと思ってしまうわけですが、そしてこれなんぞ、中1、中2、中3と、その1学期の計算中心の単元では点数はいいわけですが、あまり錯覚されないように。)
・英単語10あって、いや、1月から12月までの月名(Jnauary〜December)12個の単語テストがあって、10個はできたが2個スペルミスをしたのなら、それはミスというより、暗記の下準備とその訓練が浅く、いまひとつ不徹底な勉強の結果でしょう。
・英語を半年やって、また1年半以上も学んで、いまだに3単現のsや疑問文で?マークをつけるのを「ついうっかり忘れる」なんてミスは、「ついうっかり忘れてしまった」と捉える意識そのものをなんとかしたら。このくだらないミスを生徒は何度繰り返せば気が済むのか、知っていますか? いつになったらあきらめて(?)このミスを直すか、知っていますか? これは過去に幾たびか書いています。よってごく短く。完璧に近くなくすには、こちらがもはやこれまでとあきらめ、戦意喪失(?)するまで注意し続けなければならない。
・10個程度の漢字暗記テストでは満点取れるも(そんなものは当たり前だろう、練習すれば)、社会の歴史なんかのテストとなると漢字ミスをバカバカしでかす生徒、あきれてものが言えない。
(まあそれでも、テストでだらしなくひらがなで書いて平気で済ましている生徒や、そのことをきびしく注意、指導していかないいい加減な教師よりはましだけどね。) 漢字で教科書に書かれているなら、漢字で書けるように覚えろ。そして、もっとほんとうに本を読め。これが、基本。
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