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§216 自分の学力を知る難しさについて VOL.2
<小事のみすごし>
少し間があきました。前回のVOl.1とは少し内容がずれますが、次の2例から「自分の学力を知る難しさ」についての注意点、心構えを参考に書いてみます。
ネット上でよく見かける質問内容ですが、プライバシーの面から少し表現や数値の若干の変更をしてあります。
A君の例。中3受験生(男子)
「最近、模試を受けて偏差値が下がってしまいました。学校の学力テストでは偏差値60はこすのですが、塾の模試を受けると偏差値が60に届きません。僕の志望は公立高校で偏差値63なのですが、そこまでなんとか伸ばしたいです。しかし今では、模試で2学期の偏差値が57、54と下がってしまいました。下がった教科は数学と英語で、国語もいまいち、理科と社会はだいたい60は超えています。国・数・英の3教科の偏差値が50ちょっとしかありません。これでは私立の併願も不安です。一体どうすればいいのでしょうか?」
B君の例。中3受験生(女子)
「中3の秋までは54前後を維持していたのですが、このまえの塾の偏差値では5科で47をとってしまいました。いままでは塾に通っていてその勉強だけしかしていません。ほかにはほとんど勉強していなかったのが原因だと思っています。私の入りたい公立高校の偏差値は5科目で63ぐらいはいります。どんなに厳しくても頑張ってみせます。自分でも理解力には自信があります。今から一生懸命勉強して、3月の初めまでに偏差値を47から63以上にあげることは可能ですか。どうか教えてください」
どちらの生徒にも共通していえる事は、塾に通ってる点と、この大事な時期に成績が下がってしまったこと。そして自分の実力に対し、目標としている高校のレベルがあまりにもかけ離れていることでしょう。
「情というのは知識の温度を変え、知というのは情報の明度を変える。それによって見聞したことから雑色や雑音が消え、ものごとの本質がみえることがある」(宮城谷昌光『子産』より)という、言葉があります。
これに即して言うならば、情としてはとてもわかるのだけど、またそのような精神的に鼓舞をするアドバイスが目立つわけですが、また具体的方策なんかを読んでみても、的が外れていたり、おそらく出来ないであろうことは容易に想像できる、どうにも実行不可能なことばかり列挙してあったりもしています。
ここは情に曇らされることなく、知という情報の明度を、一定に保ったまま一般的に論じることにします。この事例は毎年繰り返されるものでほんとに多く、決して他人事ではないでしょうから。自分の学力を知る難しさについて、まさに当て嵌まるものといえます。これを他山の石としたいものです。
このような状態になる前に、またならないように、生徒は、常日頃からの勉強の中身とその掘り下げに、くれぐれも注意と努力を傾けて進んでいくことが大切なのですが、果たしてそれができていたかどうか?! また塾側も同様で、そのことへの指導と対策に腐心を重ねるべきなのですが、現実はそうでもないことも、あたまの隅に入れておいてもいいかも知れません。
さて、上記の生徒はどちらも公立高校志望で、大切な内申の状況がわかりませんが、あくまで実力だけに限定して偏差値が63前後は要るとしても、その射程圏に入っていてそこからの成績ダウンなら盛り返しの策もないことはないでしょうが、そこに一歩も二歩も到達していないところからさらに落ちているのですから、ただただ願望のみが優先しているようにも感じます。
まあ、その点に関する言及は避けるとして、一般化しますが、中3のこの時期に来て、急に成績が下がった原因とは何か、細かなところはいろいろ生徒によって違うのですが、大きな要素として2つ触れておきます。それは同時に、いまの中1や中2生にとって、こころしておくべき備えになるでしょうから。
簡単にいえば、自分の内なる原因と外なる原因のふたつです。
自分の内なる原因。
「大事というのは小事のつみかさねの上にあるのです。小事をおろそかにすれば、必ず大事に泣きます。人がみすごしたりあなどったりするささいにことに、しっかり対処してゆく者が、結局成功するのです」(宮城谷昌光『太公望』より)
下がってしまった原因は、小事のつみかさねがしっかりできていなかったこと。そして延々とここまで恐らくやってきた、小事のみすごしのつみかさねに在ります。
小事とはなにか、これまで学習のしかたのメルマガでたくさん、たくさん書いてきました。また皆様がすぐに思い浮かぶことでもありましょう。そして実際に生徒の勉強に立ち会えば、数学や英語などは特に、その思い浮かぶ内容の10倍前後の指摘と注意が必要になることがお解かりになるかも知れません。さらに、その同じ指摘を倦んでしまうほど繰り返す必要があることも気づかれるでしょう。
ここではその数多あるなかのひとつだけ、取り出してみます。上記の生徒の数・英の学力はほぼ完成段階に入った時点で、結局並の力しかありません。おそらく内容から察するに、狭い範囲の定期テストでは80何点かは取っていたのでしょう。それが実力に必ずしも直結していないことは、いままで散々指摘してきました。
その定期テストで、また塾の学力評価テストで、答案が返ってきた。点数と偏差値があれば偏差値をみる。どこが間違っていたのかもチラッとはみる。ただ、それだけでしょう。瞬時の反省の気持ちや失敗した悔いはあるでしょうが、それがいったいどうしたというのか?! 大事なことは、次に繋がる行為があるのか、どうかでしょう。小事のみすごしとは、ここに在ります。
その後答案がどこかにくしゃくしゃと仕舞われようと、几帳面にバインダーなんかに綴じられて保管されていようと、それは形だけの違いで、たいして差はない。わかっていたのについミスをした問題、まるっきり歯が立たなかった問題(定期テストレベルではまず基本的にないんですが)は、どこに消えてしまったんだ? 取りこぼしていて覚えるべき内容、再理解しなければならない問題、そして次には絶対同じミスだけは避けたい部分、それらを自分で頭のなかにしっかと叩き込まねばならない作業は、いったいあるのか?!
上記2生徒の勉強の姿のなかには、これがまったくないであろうことは断言(この言葉は出来るだけ使わないようにしているのですが、ここでは使います)できますし、おそらくこれをお読みいただいている方の生徒の10人中9人は、上の作業がないかに推測します。定期テストでも実力テストでもその対策のパターンは、「1,2週間前からの念入り(?)な対策→テスト→テストの返却」
で、完結しているかに思えます。大切な学習がひとつ足りませんよ、と。
これはなにもテストばかりでなく日常の復習作業の中でも、また受験に絡んだ応用レベルの問題にあたったときでも必要とする作業でしょうし、またもっと細かななんでもない行為のなかにも、小事のみすごしはあります。それらの累積が結果、大事な時期にきたときに実力のぐらつきが出てきたり、また成績を下げてしまうことになるわけで、「知ることがむずかしいのではなく、知ったことを行うのがほんとうにむずかしいのだ」(宮城谷昌光『子産』より)の意味をよく噛みしめて、いまの学習の改善とこれからの勉強に役立ててほしいと願っております。
急に成績が下がった理由の、もうひとつの「外なる原因」ですが、これはテスト問題の質の変化がひとつに挙げられます。つまりこれまでの、習った基本が身についているかを問う、確認の要素が強いテスト内容から、その狙いを入試に照準をあわせた、基本を活用しての応用力や思考力を要求する問題を織り交ぜたテスト内容に、上手く対応できない結果でしょう。理科や社会は範囲の拡がりですみますが、たとえば英語は本格的に長文化するわけですし、数学は図形の応用の比重が高まってきますね。
しかし、このことに関しては専門的に既に幾度か述べていますので、ここでは省きます。今回のテーマにはそぐいませんし、偏差値の65までなら、上の自分の内なる学習をきちんとこなせば十分に到達するものですから。
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