|
§210 英語の入試長文に入ってわかること VOL.1
<英語の科目の後ろには国語力が>
「まずい、ほんとにまずいね、と思う。なんなんだろうね、その英文の訳す力は・・・。こんな・・・ものだったのか・・・」と、猛烈に気分が冷め落ち込んでいくのが、そしてなんともいえぬ失墜感を味わうのが、入試対策に入り、その「長文読解」をさせたときに起こる感懐です。
もう少し詳しく書きますと、これは英語の偏差値が50から60の間にある生徒への心象です。偏差値が60から65の間にいる生徒には、この感覚をすこしましになりますがそれでも、甘いなあ、その和訳力ではええ点がまだ取れんぞ、と思ってしまいます。
そして偏差値が65から70の間にいる生徒になってようやくここで、まだ誤りと足りない知識が少し含まれている面があるけれども、その和訳のしかたにそこそこ安心して耳を貸すことができるようになります。最後、偏差値が70を超えている生徒の場合、その訳すスピード、リズム、また変換する日本語の自然さに、曖昧なところが殆どないため、こちらもプラスαな知識、さらに工夫す
べき点などを短く教えることができます。
地道に営々と積み上げてきたものが、繰り返し演習し蓄積してきたはずの文法を初めとする英語のさまざまな知識が、それも飽きるほどミスを直し細かな文法的な誤りを指摘し、基本の徹底を図ってきた勉強の結果が、それでもなお彼らの中で、如何に消化し切れていなかったか、頭と身に収まっているいるようで実はさばさばと落としてきたか、つくづく思い知らされる瞬間、それは入試長文の読解を本格的に始めたときです。
それはちょうどスクリーンに映った像を、生徒やその父母、また教師の殆ども普通に見る位置といいますか、客席側から観ているのに対し、まったく裏側の、反対から凝視している感覚といえばいいでしょうか。そしてこの感覚は、ごくごく一部の人にしか判らないかも知れません。虚像と実像でいえば、まさに各生徒のもてる英語の学力の集大成の実像をみせつけられることになります。テストの点数や偏差値といった、通常客観的に認識しえる力ではなく、もっと生々しくリアルな実体です。(うーん、できることなら、見たくはなかー。)
各生徒の英語力はそれまでに十二分にわかって掴んでいるのは当たり前ですが、こうして入試レベルの長文の英語となりますと、それは英語単独の力だけではすまされず、国語の力が当然要ることになります。
しかし、そのようなことは英語を習い始めてから常に必要なもので、ここに来て急に言うようなものではなかろう、また学校の教科書などでも和訳の訓練はしているだろう、しかも中3生ともなるといくらなんでもある程度基本の日本語の力ぐらいはついているだろう、とお考えの方も多くおられるかと思います。そうです、まことにそのとおりです。理論上はその通りなんです。
しかし、その簡単な理論が、通じない。どういえばいいんでしょう。ちと違うんですね。平均の国語力とします。平均の英語力とします。それぞれ単体です。その二つを混ぜ合わせると混合物です。しかしなぜか化合して別の物質、化合物になるっていえば、その実態を表しているでしょうか。しかも、いいように化合されるのではなく、どちらの力も減殺されるって感じです。別の言い方をすれば、英語と国語が、本人のなかで互いに足の引っ張り合いをしているんですね。それが入試英語の長文に対する、平均やや上の生徒の力、もしくは近いすがたです。
ここで少し話を逸らしますが、中学では結構英語については成績がいい、実力も高いレベルであったのに、高校に入ってから英語の出来が悪くなった、あれほど得意にしていたのいまは平均点そこそこしか取れなくて苦しんでいる、といった生徒は、公立トップ校や私立進学校でもかなりいるものです。
その原因にはいろいろあるのですが、そのなかの一つとして、この国語力の低さがあります。日本文に比べ英文は、一般に論理性の高いものが多く、たとえ訳せてもその長文のなかでの論理についていけず、主張が読み取れないといったことは、案外多いのです。
それが中学レベルなら、高い英語力があるのならそれでカバーできる面があるといいますか、まあ普通の国語力でも入試にはさして深刻な影響を受けることなく、通じることができるわけです。成績がいい生徒はこの点が大丈夫か十分注意して、また今後の対策に生かしてください。
話を戻します。曖昧な表現にしてましたが、普通の国語力について。これは指標として偏差値の50を指しているものではなく、60ぐらいをイメージしています。それくらいでやっと普通でしょう。いまの公立中学生の平均の国語力というものはあまりにレベルが低すぎます。
入試英語の長文に対しては、平均の国語力ではその英語力を支えることが困難。実際にその訳すなかでどういうことが起こるか、長文をどのように読み取っているか、また如何に読み取れていないか、それはここであまりは意味がないので省きます。つまり普通の国語力でやっと、長文の英語に書かれている筋道を追うことができ、全体の大意も掴むことが可能といえるでしょうか。ただしそのためには、それ以上の英語力が必要なのは言うまでもありません。
社会の科目の後ろには社会の雑学が、理科の科目の後ろには理科の観察の目が、国語の科目の後ろには国語の読書の世界が、数学の科目の後ろには数学の直観力が、そして英語の科目の後ろには国語力が必要なんでしょう。
いままでにも幾度も指摘してますが、ほんとに国語を大事にしてもらいたいと思う。どうにかしようとして、どうにもしていないのが国語の科目であり、日頃の勉強でしょう。その学力を性急に上げる方策をわたしは知りません。ただ知っているのは、絶対的な読書量がそのベースに要るということ。中3では遅い。せめて中1と中2のあいだに、そしてほんとうは小学から、読書量を積んでいくことが望まれますね。中1と中2生は以上のことを十分わきまえて勉強していってほしいと思います。
では、中3生はどうなのだ? 事ここに至って・・・。
以下は、わたしの大好きなニューヨーク・ヤンキースのトーリ監督の談話を記事にしたもの。「17:9」で試合に大敗したあとの話。
トーリ監督は「醜い試合」とぶった切った。だが怒りをたぎらせているわけでもない。7人の救援投手を送り込むたびに向かったマウンドで笑顔もあった。「いろいろ面白い話をしたよ。うちのチームは面白いやつが多いな」。ミーティングではこう話したという。「いいことがあっても、悪いことがあっても、それはその場に置いて次に進め」。
そう、「いいことがあっても、悪いことがあっても、それはその場に置いて次に進め」なんだね。まったく、敬愛する監督だけあって、いい事をいう! これは、1年の長く厳しい戦いの終盤戦、いよいよ大詰めの状況下の発言であるけれど、中3の2学期後半からはまさに同じ状況。悪いことはそれまでに、最善を尽くして直す努力をし続けておかなければならない。
とにかくこれからは、その場に置いて次に進め、です。進む道は、入試英語の長文のなかでしょう。根本的に悪いところ、弱いとするところは、もう直らない。しかし、小さな悪いところ、弱いところは、なんとか直していける。これが入試対策の、ある意味極意ですよ。現実はそれも気付かず、直さず、そのまま突入する生徒が如何に多いことか。
では、どのように学習を進めるか。それは次回に。
|
|
|