高校入試でターイセツなこと、って何だ?!
§152 家庭教師の質問について
<教え方の質問>
 
 勉強には、正しいしかたはあるけど、コツはない。表面的で浅いなコツならさまざまにあるのだろうけど、そんなものは世間に溢れるノウハウ本と同じで、実際ちっとも役に立たない。そんな体験と例が圧倒的に多いはずだ。それゆえ、圧倒的に多い、不毛なことをわざわざ書く気はしない。 

 それがなぜ役に立たないのかは、発信する側のなかにもただ時流に馮っただけの、内容も実は空疎、または主張が統計や数字、例証や実験を引き合いに出しただけで、その本人以外の他人には何ら実践的効果も期待できない、また説得力もいまいち乏しいものも意外と多いのだけど、受ける側のこちらの姿勢にももちろん、大きく起因していることはよくある。

 そもそも役立つコツなど、羅列的に次から次へと書かれていても、自分にとって大切なことをたった一つ見つけることが出来れば、それはさいわいである。それをどう汲み上げて実行できるかどうかが問題なのだろう。または、自分流に解釈し直して実行する工夫に努めることだろう。が、しかし、その多くはなされぬままに終わることがほとんではないか。つまり、意志になりおおせてないからだ。
 
 特に勉強が出来るようになるコツなんて、他人からのもらいもので直ぐに役に立とうはずがない。自分でもう少し苦しんで試行錯誤しつつ見つけろいっ!と言いたい。まったく、ジャガイモの皮をむくコツではないんだから。いや、その前に、もっとやらねばならない基本があるでしょう。大抵のものは、正しい勉強のしかた(それは一通りではなく、何種類もありますが)そのものがわ
かっておらず、またわかろうともせず、たとえ教えられてもそれを忠実に実践していこうとはしないのだから。

 これまでにわたしは、勉強に関するさまざまな内容とその断面、また周りにある諸問題について数々触れてきましたが、コツなるものについて語った覚えは殆どありません。また同様に、教え方についても。

 ところが困ったことに、また極めて迷惑なことに、その教え方について助言が欲しいというメールが、大学生の家庭教師からくるのですね。勉強のしかたと教え方は一見似ているようでいて、実は相当異なる話題です。

 その内容はもちろん深刻です。藪から棒とはこのことか、突然何にもわからない相手からいきなり深刻で切羽詰った問題をぶつけられる。事情はそれなりに詳しく書かれている場合が多いのだけど、自己説明といえばいま、大学の何年生でたとえばいま中3生を教えているとかぐらいで、その相談者のイメージがさっぱり浮かばない。

 どこに住んでいて、どの大学に通っているとか、せめてそのくらいの最低の情報だけは明記しておいてもらいたいのだけど、へたすれば名前すら明かさないわけで、これがインターネットの世界のひとつの負の姿には違いないが、こちらはそこそこ情報を発信しているから相手には見えても、逆の相手はまったくつかめないもので、見えない相手に深刻な話をするのはどうも煩わしいものだ。

 それも大抵は二進も三進もいかない成績不良の生徒の教え方である。100%そうであるから堪らない。指導する生徒の集中力を引き出すにはどうすればいいか?という質問であったり、やる気をもっと出してもらうにはどうすればいい?という相談であったりする。宿題を出してもきっちりしないので困る、こういう場合どうすればいいのですか?という質問、また時に親から成績を上げないと首だといわれている、あせっています、どうすればいいでしょうか?といった内容までも。

 ふーん、とっても疲れる。これらは答え様がない質問である。問題点は、家庭教師本人にもあり、てこずらされる生徒にあり、また時にその親にも及ぶ場合があるからです。

 やさしくていねいに友達感覚で教える家庭教師は多いと思うが、それで通じる生徒もいれば通じない生徒もいる。通じないとは、制御・コントロールできないわけで、そこに甘えを許し、それを醸成することになる。この環境下では勉強という表面的な作業はできても、その中身となると、一つ一つの問題点は手付かずであったり解決されぬまま放置されていることが極めて自然な(?)
状態である。

 これは何も家庭教師の場合に限らず、学校でも同じであろう。もう少し年齢と経験、それなりの教えることに対する諸知識を積んだ、また場数も踏んだ教師ですら、これを助長し、結果からみて何ら手立ても方策もとれない、つまり資質と能力に欠ける、または努力と反省を怠り改善の工夫を見つけえない者も、予想以上にいま結構いるといえる。

 このことをそのまま大学生の家庭教師にも当て嵌めようとはつゆも思っていませんが、勝負は最初の2,3回目までに在る、ということが一向にわかっていない者が多いのには閉口する。つまり、わからないところをわかるようにていねいに教えることだけに注意を取られ、3,4回目から生徒はくずれることに気がつかない、あるいはそれを見逃している。

 その小さな綻び、崩れようとする姿勢と怠惰な気持ちが表に出てきたら、すぐさまその乱れを匡し、直さねばならない。またその後、何度も呆れるほど直す必要があるのはいうまでもない。成績の良し悪しに関係なくそれは滲み出る。くずれぬならそれでいい。そのような生徒は伸びる。しかし、少ない。

 成績を上げることが第一義とするなら、くずれゆく基盤では話にならない。いやすでに、その基盤は相当穴ぼこだらけであるのが通例であるから、その上にまた、気持ちの弛みや怠惰に流れる姿勢を制御できないようでは、学力の向上どころか、補強ですら望むべくもない。

「生徒の集中力を引き出すにはどうすればいいか?」
 このように一見筋が通ったようで、曖昧そのもの、きれいな包装紙に包まれたようで、実は中身がない質問にはほんとに参ってしまう。「やる気をもっと出してもらうにはどうすればいいか?」もまったく同様。 

「そんな薬は、ねえっ!」 この一言で出来るものならすませたい。
 このように具現化できない質問を、また頭の中で考えただけの、非常に発想の貧しい抽象的なことを、いとも気安く質問してくる。まるでそれに相応しい適当な答えが直ぐにあると思っているかのようだ。

 この種の無邪気ゆえの愚かな質問を発する前にまず、その種の本を自分で足
を運んで捜し、見つけ、買って読みなさい、といいたい。買うのがもったいの
なら、必要な箇所をメモするなり、とにかくまずその中から自分で出来ると思
えることをまず実践しなさい、とさらにいいたい。

 しかし、その多くは徒労に終わるだろう。そのことに気付くのも大切なこと
だ。また、もし自分に集中力があると思うなら、それがどうして身についたの
かを、どのような過程を踏んで獲得したのかを考えてみるとよい。仮にその困
難で煩わしいことを説明できたとしても、それは多分に、自分にしか有効では
ない代物であろうし、他人には転用できないものだということに、思念は至る
はずだ。

 深刻な内容でももう少し軽く受けとめて、適当なヒント、簡単なアドバイスをすればいいのかも知れない。されどそのようなものは束の間の気休めにはなるかもしれないが決して役立つものでもないことを、生徒を長年直接指導してきて、また成績が悪い生徒の実態と中身も嫌というほど知悉しているつもりなので、その問題点の限りない多さを想うと、おいそれとは話せないのである。

 これらの場合、内容が内容だけに、いい指摘など到底できない。決して耳障りのいいことは書けないのである。すでにここまで書いてきても、今回のような内容、主題は自分自身あまり気持ちのいいものではない。何ら義務もないのに、苦痛である。その多くはほんとうには理解されないか、いい印象をもてない運命にあるといえる。

 それだけにこの種の質問自体に、多くの言葉を尽くしても誤解を生じることを避けられないものが、初めから内包しているのである。適切にまた普通に書いていたとしても、何気ない言葉で相手に不愉快な感情を抱かせたり曲解されることは文章では多々あるわけで、尚更である。また逆に、言葉少なくても同じ結果になります。

 いままではわたしなりに対応して参りましたが、今後、家庭教師からの「教え方」に対するご質問だけはお応えできかねますので、ここに明記させていただきたく存じます。