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 中学生の学習のしかた by Toppo
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§324 中学生の国語力アップの一方策VOL.1<書写>

 清水幾太郎といえば、わたしらが高校生のとき、その著作のひとつ『論文の書き方』 (岩波新書)は誰もが耳にし、もうバイブルに近い存在で、多くの高校生が読んだものです。わたしもたしか高2のとき読みました。

 その清水幾太郎が書いたものがいまもなお高校入試のなかでも採り上げられているのですが、「文章の書き方」というものに対して、非常に示唆に富んだ意見を述べられている箇所があるので、その主張を敷衍しつつ、わたしの考えもつけ加えてみます。

 文章を書く場合、よくアドバイスとして「思った通りに書きなさい」とか「見た通りに書きなさい」と主張する人が多くいます。その多くとは誰かというと、おそらく学校の先生になるでしょう。筆者の言葉を藉りれば、「文章というものを、自然に成長する植物の一種のように考えているのでしょう」と、思っている人々に属しているといえるでしょうか。

 しかし、自然に成長する植物には力強い生命の法則があって、厳しい自らの決まりのもと自然と闘って伸びていくものだとすれば、昨今の中学生にはまだ自らの決まりもなければ、力強い文章表現の素養というか基盤なるものが備わっていませんね。それゆえ、思った通りや見た通り書けば、数行で筆は止まってしまうのが関の山。よしんば指定の字数を書けても、その内容は脈絡も論理も曖昧な、まさに乱文になっていることが多い。

 思った通りに、見た通りに、と融通無碍に書けるようになるには、ご存知のように、実はさまざまな文章を相当の量読み込んだ体験を持っていなければならないし、またその上に文章作法の知識と書いて表現するという訓練を、人一倍研鑽しておく必要があるではないか。まあ、そこまで大袈裟に考えなくても、この種のアドバイスは、常識のウソというか気休めにもならないトンチンカンな指摘であることはまちがいない。

 清水幾太郎はこういっている。

 文章は、一種の建築物である。書き始める前に、完成後の姿(つまり、文章で言い表したい結論)というか、イメージというか、それがこころに浮かんでいなければならない。それがなければ、文章を書くという行為は出発することができない、と。次に、どんな建築物にも材料が必要なように、文章を書くにおいてもこれを事前に用意しておき、自分の主張の正しいことを‘証明’するのが、文章というものである、と書いています。

「すべての文章は証明である」(注:清水幾太郎が引いた言葉)
 まさに至言。もちろん世のなか、証明がうまくいっていない文章のほうが、圧倒的に多いのだが。ちょっと脱線しますが、生徒は、数学の証明問題がとても苦手ですね? この原因は大きくふたつあって、ひとつは図形力そのものが弱いこと、もうひとつは、証明するための文章そのものが正しく書けないことを、ここで指摘しておきます。

 話を戻します。文章を書く上で、材料を用意しておけば、それを適当に使っていけばいいかというと、そうではありません。材料を実際に使う場合の順序を決定しておくことがとても大切である、と。そのことを、一軒の家を作る例で説明しています。つまり、最初に瓦を地面に並べてしまったら、土台を作ることも、柱を立てることもできなくなる。だから、どの材料をどの段階で使うかをあらかじめ綿密に計算しておくことが大事なんだと。その計算に小さな狂いがあれば、せっかく大切な材料の一部が使えなくなったり、無理に使うと材料そのものが死んでしまうことにもなりますよ、と。そうなれば、その文章の説得力は喪われてしまいます。

 さて、ここまで読んできてなにやらどうもおかしいと違和感を覚えておられる方もいらっしゃるかと思います。今回のテーマは、「中学生の国語力アップの一方策」です。なのに、書いていることといえば、「文章の書き方」についてではないか?! 読解力もあやふやなのに、その上のレベルの表現力に関する話題を展開して、はたして「中学生の国語力アップの一方策」とどのように繋がるのか?・・・。(ほんとに書いているほうも不安になります。証明できるのかな?・・・。)

 いや、わたしが述べたいことは、清水幾太郎が「文章の書き方」で指摘した大切な要素三点で書かれたさまざまなタイプの良い文章を、書写する勉強をしてみてはどうか、といいたいのです。

 昔から、読み・書き・そろばん、といいますが、いまではこの飾り気のない基本的な力を力強く豊かに持っていてこちらから安心してみておれる生徒は、ほんとに少なくなってきました。読み・書きとは、ここでは漢字のそれだけでなく文章の読み・書きまで含めて用いていますが、「読み」のさまざまな勉強に対して「書き」に関する勉強というか訓練は、小学・中学と実際ほとんどなされていないですね。これはわたしに言わせれば、戦後の国語学習のなかの大いなる欠陥、誤謬だと思っています。

「読書百遍意自ずから通ず(または、読書百篇義自ずから見<あらわ>る)」
という言葉がありますね。どんなに難解な書物でも、幾度も幾度も繰り返し熟読することによって、意味が自然にわかってくる、という意味。文章の「書き」も同じである。この精神と姿勢で、よい文章の書写をある一定期間コツコツやってゆけば、いつしか国語力は上がってくるのではないか!?

 ネット上の或る質問コーナーに、中学生の国語力を上げる方法でどのようなものが有効かいう質問に対し、次のような回答が載っていた(注:ただし、配慮して一部修正)。
 
「私が高校受験の国語力アップのためにやった勉強は、新聞の「コラム」(朝日の「天声人語」)を毎日読んで、書写することでした。それを塾の先生に提出してました。ただ○をもらったり、よくやった、とか書いてあるだけでしたが。毎日やる、と意地になってやってました。 感想を書くとか、新聞毎日読むとかだと重荷になってしまいますが、ただ「読んで写す」ことならできます。毎日、文章に触れることができます。やること自体簡単なので、続きました。内容もひねりがあっておもしろいので、私はあきませんでした。私は中3の夏くらいから始めましたが、偏差値69の都立高に合格しました。○○さんは中2ということなので、これから始めても全然遅くないと思います」

 朝日新聞の「天声人語」、読売新聞の「編集手帳」、毎日新聞の「余禄」など、そのいずれかのコラムをノートに書き写す勉強は、昔からの国語力をつける定番の方法だけど、塾の先生に勧められてこの生徒は実行したんだね。

 ノート提出しているのだから、単にこれはいい方法だからやってみては、と勧められたのではなく、そこには塾側からの強制もあったのだろうが、そのチェックは「ただ○をもらったり、よくやった、とか書いてあるだけで」と述べているように、塾側も熱心には取り組んでいない様子で、また生徒にとっても少々肩すかしを食らった感じの指導ではあるが、まあこんなものであろう。

 わたしが指導しても、似たり寄ったりかな。あれこれ多くを求めないし、期待もしない。求めるのは、ただひとつ。コツコツ半年なり、1年なり、最後まで続けてみろ、ということである。期待しないのは、第一続けられるのか?という意いであり、期待しないほうがこの種のことはかえっていい結果が出ることが多いからでもある。

 この「書写」の学習をやれば、その効用はこれこれでと何か条も挙げることはできるが、それは生徒次第であろうし、そもそも「読書百遍」の精神は、人に頼ることなく、まず自分で考えろ、ということであって、やっていくうちにその真価と効用に自分で気づいたり見つけたりすることにこそ、値打ちがあるといえよう。

 わたしもすでにこの方法は、メルマガにも書いてHPにも載せてあるけれど、真剣に自分の国語力をなんとかしなければならないと考えている生徒には、この勉強を組み込んでみてはどうか、と思っています。

 さて、このまま終わってしまえば、私の今回の文章の建築物は土台と柱を建てただけのようで、屋根に瓦を積んでいないことになる。証明はまだ終わっていないし、建物は斜めに傾いたままである。まっすぐに建つよう、次回はこの続きを。